カテゴリー: あゆみ
2015年1月11日 礼拝説教要旨
洗礼とは
政所 邦明 牧師
ルカによる福音書 第3章21-22節
主題聖句:「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると…」
(ルカによる福音書第3章21節)
“主イエスが洗礼を受けられた”とマタイもマルコもルカも書いています。そのうち、マタイとマルコの記述からはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川で受洗されたことが伺えます。ルカは“どこで、だれから”受けられたかについて明記していません。ただ、民衆が洗礼を受け、その民衆の一人に加わるように主イエスが受洗されたと記しています。上記のみことばは民衆と主イエスの受洗とがきわめて密接であると簡潔に示しているのです。
罪のない神の子がなぜ、罪を抱えたままの民衆に紛れるようにして洗礼をお受けになったのでしょうか。罪のない方には必要ないはずです。この時点では謎が残ると思います。しかし、数年後、主イエスが弟子たちから裏切られ、逮捕される前に12弟子たちに言われたことばがあります。「…『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。…」(ルカ22章37節)これはイザヤ書53章12節の引用であると言われます。この言葉と主イエスの洗礼とは密接に関わるのです。
主イエスが宣教をなさる前に民衆の一人に紛れるように洗礼を受けられたのは、伝道のご生涯の目的が、罪人の罪を一身に引き受け、身代わりに死ぬことを暗示しているのではないでしょうか。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から声がありました。(ルカ3:21)ここにもイザヤ書第42章の言葉が含まれています。イザヤ第53章同様、苦難を受ける僕の姿を預言したものです。罪のない主イエスもまた洗礼を受けられたのは、罪深いわたしたちを救うためにこられたことを明らかにしているのです。
2015年1月4日 礼拝説教要旨
ひとり子を賜う愛
政所 邦明 牧師
ヨハネによる福音書 第3章16-21節
主題聖句:「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
(ヨハネによる福音書3:16)
この、みことばは前後の文脈から切り離して暗唱されることが多いのです。しかし、14,15節と16節とを繋げて読むのが優れた理解だと思います。15,16節に共にあるのは「永遠の命を得る」で、両節の関連を示しています。
ただ14節の言葉は、民数記第21章4節以下の出来事を知らねばなりません。約束の地を目指して40年間、旅をしていたイスラエルの民は、不信仰を起こし神に反抗します。そのため、神は〝炎の蛇〟を送られ、蛇が噛んだために、多くの民が死んでしまいました。民は悔い改め、神に救いを求めます。すると神は答えられました。…青銅で蛇を鋳造し、それを旗竿の先に掲げなさい。青銅の蛇を仰ぎ見る者は、実際の蛇に噛まれても命を得る…。
わたしたちはイエス・キリストの十字架と復活を知っています。十字架にかかられたイエス・キリストを仰ぐと救われ、永遠の命が与えられると信じているのです。“旗竿に掲げられる”青銅の蛇と、十字架に掛けられ、死んでいかれるイエス・キリストの姿とを重ねなさいと言われるのです。
生まれながらのわたしたちは体の中に毒をいっぱい抱えています。そのままでは、滅びてしまうのです。鋳造した青銅の蛇ではなく、わたしたちの救いのために御独り子イエス・キリストを十字架に架けられました。〝十字架に上げられねばならない〟(14節)のです。ほかに方法はありません。もしあったらなら、どうして愛する御子を差し出したりなさるでしょうか。神の造られた人間が滅びて良いなどと少しも考えておられません。だから最大の宝物である御子を与えてくださいました。ここに神の愛が示されたのです。