2014年12月14日 礼拝説教要旨

神が共にいて下さる

 

政所 邦明 牧師

 

マタイによる福音書 第1章18-25節

 

主題聖句:「…『その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神はわれわれと共におられる』という意味である。…」

マタイによる福音書第1章23節 

                                   

「神がわたしたちと一緒にいてくださる。」…この約束に対して、私はためらいなく、心丈夫で、喜ばしいものと考えておりました。しかし、一度立ち止まって考えてみます。はたしてそうとばかり言えるでしょうか。

 

皆様にも師匠と言えるような人がおられると思います。一面、師に憧れ、尊敬し、手ほどきを受けることを喜びます。その半面、その方の前に出ると緊張し、背筋がピッと伸びることはないでしょうか?あまりにも偉い先生なので、気後れし、窮屈さを感じるのです。研修会によく招かれる有名な牧師がおられます。講演会場は満杯、しかし、食事の時間は、広いテーブルに一人で、ぽつんと食べておられます。周りの座席はガラガラで、「みんな僕のことを煙たがって近寄ってこないのだよ…」とその先生は寂しそうでした。

 

礼拝では神の前に出るのです。尊敬とうやうやしさを持つはずです。今わたしたちが行なっている礼拝が「楽しく、気安い」ものにしかすぎないとしたら、問題でしょう。神に対して〝馴れ馴れしすぎる〟からです。

 

“神が共におられる”のなら…神の前に襟を正すことになります。その際に、神の前に自分の醜い姿が浮かびあがってくるでしょう。裁きの恐ろしさに打ち震えます。クリスマスを〝祝い〟〝喜び〟の時とだけしか考えないなら、“神が共におられる”ことの意味を十分に理解しているとは言えません。しかし、教会の歴史において待降節は、3月、4月の受難節よりも、もっと〝悔い改め〟を重要視しました。…自分の罪を悔い改めて神のもとに立ち返る。…それが“神が共におられる”ことの本当の意味だと思ったからです。

 

2014年12月7日 礼拝説教要旨

マリアの息子イエス

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章1-3節

主題聖句:「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。…」       

マルコによる福音書6章3

クリスマスが近づきました。この時期、イエス・キリストとは誰か、いったいこのお方はどのような方かをわたしたちは知ろうとしています。そうでなければ、ただ単に偉い宗教指導者の誕生だからお祝いしようというだけのことになってしまうでしょう。故郷の町ナザレで、安息日礼拝の時に起こった出来事がマルコによる福音書に記されています。

 

この日、説教を主イエスは頼まれたようです。その教えは素晴らしく、会衆席で聞いている人は驚きました。しかし、次の瞬間主イエスがどのような素性の人かを故郷の人々は思い出します。ナザレは大きな町ではありません。小さい頃からの様子を知っている人もいます。近所のおじさん、おばさん、それに一緒に遊んだ竹馬の友もいたかもしれません。それらの人々にとっては自分の知っている大工であり、マリアの息子イエスとしてしか理解できないのです。それを「人々はイエスにつまずいた」、そして主イエスは故郷の「人々の不信仰に驚かれた」とマルコ福音書は端的に表現します。

 

日常の主イエスをよく知っていても、それが救い主として信じることにはつながらないのです。そのこととは別に、いかにも神の子らしい、あるいはイエスが〝神に似ている〟と思わせる珍しいことだけを並べることも福音書はしません。奇跡によって、神の子でいらっしゃることを納得させたり、証明させたりするのが目的ではないからです。神が旧約聖書を通じて約束なさり、成し遂げようとしている救いは十字架に集中して現れます。そこに向かって進まれる救い主を私たちに聖書は知らせようとしているのです。

2014年11月30日 礼拝説教要旨

復活の先ぶれ

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第5章21-24a節、35-43節

 

主題聖句:「恐れることはない。ただ信じなさい。」

マルコによる福音書5章36

                                    

会堂長のヤイロは自宅に急いでいました。主イエスをお連れして、危篤の娘を癒していただくためです。

 

しかし、ヤイロを打ちのめす知らせが入ります。娘が亡くなったのです。「先生を煩わすには及ばないでしょう。」と付け加えます。死が立ちはだかります。厚くて高いが壁あって、「これから先は行かせない。さあヤイロの家にゆくことを諦め、元きた道を戻りなさい。行っても無駄なのだから…」と聞こえます。「死んでしまった以上、もはや何もできまい」という主イエスへの挑戦と言えるでしょう。自宅へ招いたヤイロを悲しませ、信仰を揺さぶるのに十分な言葉です。

 

死の知らせも主イエスの前進を阻むことはありません。「恐れることはない。ただ信じなさい」とヤイロを主は励まされます。死との対決が始まるのです。「子供が死んだのではない」と言われると人々はあざ笑います。恐れ、嘆き、あざけりを突き破るようにして、死から命へ少女を生き返らせなさいました。神の国、すなわち〝神が王として支配なさる〟と主は宣教されました。その内容が極まった形で明らかにされます。汚れた霊や病の支配からの解放だけでありません。主イエス・キリストは死に打ち勝ち、人間にとって最後の敵である死さえもご支配のもとに置かれるのです。

 

娘を生き返らせるのはご自身の復活の〝先ぶれ〟ではないでしょうか。この出来事を「誰にも言うな!」と主イエスは口止めをされました。しかし、娘の蘇生はキリストの復活を予め表すものです。そのことが明らかにされる時がきます。クリスマスはこの復活の主のお誕生を祝う時なのです。