2014年11月23日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

嵐の中に立つ

 

マルコによる福音書 第5章21-34節

 

主題聖句:「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もう病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

マルコによる福音書第5章34

                                    

12年間も出血が止まらない婦人がいました。主イエスの噂を聞き、この人だったら、あるいはこの人でなければ癒していただけないと上着の裾に触れたのです。その時に主イエスから力が出て行ったとあります。主イエスのご意思と関係なく反射的に力が出て行ったような印象を与えます。力が出ていったことにご自分でも気づかれ、「癒しの力を引き出すように触った人が群衆の中にいる」とおっしゃいました。そして周りを見回し探されます。

 

大勢の群衆が押し迫っていました。多くの人たちが、意図的に、あるいはついうっかり主イエスに触ったはずです。弟子たちさえ、主と肩が触れ合ったかもしれません。しかし、〝この人なら〟癒してくださる。あるいは〝この人でなければ〟癒してもらえないと切羽詰まった思いで、主イエスに向かい合い、触った人はたった一人だったのです。そしてその婦人を探し出され、ご自分の前に呼ばれました。毎日寝食を共にして付き従っている弟子たちにはショックな事態が目の前に起こっています。…自分たちは主イエスのそば近くにいて、行動を共にしているのに、ほんとうの意味では、主に触れていないのではないか?出会ってもいないし、イエス様から自ずと力が出てくるような繋がりを持っていないのではないか…ハッとして考えなおして見る瞬間となったのではないでしょうか?

 

信仰を持っていると言いながら、主イエスにすべてをかけているかが問い直されます。この御方がおられなければ、自分はとても生きてゆけないと思うほどに、強い主イエスとの結びつきを信仰者には求められているのです。

2014年11月16日 礼拝説教要旨 

政所 邦明 師

 

嵐の中に立つ

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第5章21-34節

主題聖句:「…主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」           

マルコによる福音書第5章19節 

                                   

マルコによる福音書を読みはじめて、次のことに気がつきます。汚れた霊、あるいは悪霊に命令して、取り憑いている人から出てゆくように主イエスが命令されると、そのとおりになるのです。しかも同じような出来事が何度も書かれています。〝悪霊追放〟は現代のわたしたちに、少なからず抵抗を覚えさせるのではないでしょうか。何か縁遠いように思われます。「心や精神を病んだ人を癒やされたのだ」と考え、簡単に片付けてしまうのです。しかし、自分の中に複数の互いにぶつかり合う力があって、それらが戦いあっているのをだれでも経験するでしょう。たとえば、自分を向上させ、善を目指して進もうとします。すると行かせまいとする逆方向の力が働き、足を引っ張ります。そして自分の望まないところに引っ張っていこうとするのです。

 

使徒パウロは自分の中に罪の法則があり、自分をとりこにしている事実を赤裸々に語ります。そして…望まない善を行わず、望まない悪を行っている。自分がしていることがわからない。何という惨めな人間なのだろう。(ローマの信徒への手紙第7章14~24節)…悲痛な叫びをあげます。

墓場に暮らし、たえず叫び、いてもたってもおれなくさせる力によってこの男はいつも苦しめられてきました。平静さにだれも連れ戻してはくれません。「この惨めさから救ってほしい」と叫び声をあげていたのです。

 

湖で、行く手を突風に阻まれても、向こう岸のガリラヤから、外国ゲラサの地まで主イエスは来られました。だれにもできなかった罪の力から男を開放し、神がしてくださった恵みの業を証しする器に造りかえられたのです。