2012年6月24日 礼拝説教要旨     郷家一二三牧師

主題聖句:「死を司る者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」

              ヘブライ人への手紙第2章14-15

説教主題「解き放たれて生きる喜び」

 普通の生活の中では、だれも自分が「死の恐怖の奴隷」であるとは気づきません。でも周囲の人々の死に出会って、幼い子供も子供なりに死の恐れを感じとります。友人を事故で失った私は、彼の遺体の前に座り込んで、自分の体の震えがとまらなかったことをはっきり覚えています。

その恐れの奴隷にされている本当の原因が何であるかを、聖書のこの言葉がはっきりと示します。死をつかさどる者が、わたしたち人間を巧妙におどして、律法どおりに正しく生きていないと責め立て、罪を示し、その結果は死だ、との恐れを心に植えつけていくのです。悪魔とありますが、確かに自分が願う生き方が自由にできない現実にであうと、それは意志の弱さではなく、責め立てては脅す悪の力の支配なのです。

 主イエス・キリストがわたしたちを解放してくださいました。神の子である罪のないお方が、わたしたちと同じ血と肉を供えた死ぬ人間となられ、わたしたちの罪の裁きを十字架ですべて受けてくださいました。 責め立てられる思いは消え、この救い主におゆだねするなら、心の底から晴ればれとした気持ちになり、漠然とした不安は消え去るのです。

- ここに福音の光が差し込み、解放の讃美が響きます。死の奴隷からの解放記念日とは、今日のこの礼拝です。わたしたちは本来の人間の自由な姿とされ、身も魂も主イエス・キリストのものとされて生きるのです。

2012年6月17日 礼拝説教要旨  

主題聖句:「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」       

フィリピの信徒への手紙4章6節

主題聖句「神に打ちあけよう」

   「打ち明けなさい」は口語訳では「神に申し上げるがよい」でした。もともとの意味は「神に知っていただきなさい」です。神は私たちの心の底まで見抜かれます。胸の内をお話ししなくても、すべて知っていてくださるはずです。しかし、“黙して語らず”ではなく、わたしたちが「打ち明ける」ことを神は求めておられます。「秘密は他言しない」と信頼出来る相手(親友など)には、心の重荷を降ろしたくて、堰を切ったように語り出すのです。口語訳のように「申し上げる」というと、神の前に格好をつけ、都合が悪いことは言わないようにする印象を持ちます。しかし「打ち明ける」なら、“何もかも洗いざらい”ということにならないでしょうか。「こんなことをお願いしても無駄だ」と打ち明ける前に諦めて祈らない傾向が、不信仰なわたしたちにはあります。パウロが「知っていただきなさい」というのは、「神は信頼できる方です。」必ず受け止めてくださり、最善の形で応えてくださるというのです。

 その際に「感謝を込めて」とあります。元の言葉は「感謝と共に」で、「感謝を忘れては行けません」というのです。―打ち明ける前から感謝をしている―応えがない先にまず感謝をします。神の変わることのない愛を信じるからです。また神の知恵と力とを信じます。わたしたちは目先のことしか、気が廻りません。深謀遠慮とは程遠いのです。神は無限の知恵と知識、更には力をもっておられます。だからこそ「打ち明けるだけの値打ち」があるのです。神は信頼のできるお方です。

2012年6月10日 礼拝説教要旨

主題聖句:「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」 

      フィリピの信徒への手紙4章5節

説教主題「主は近い」

 「広い心」は口語訳や新改訳では「寛容」「寛容な心」とそれぞれ訳してあります。個人の翻訳でも「温和さ」「寛大さ」などと優しいイメージを連想させるものが多いのです。しかし、人の徳目の一つのように考えられがちの「広い心」も、その根拠は主イエス・キリストがすぐ近くにおられることにあります。“主の近さ”とは何か?近いだけではなく、一緒にいて下さるのです。どのように一緒にいてくださるのでしょうか。罪を赦すことにおいて、深く私たちと結びついてくださいます。

 パウロの願いはこうです。…キリストがあなたの罪を赦すこれ以上ない寛大さを示して下さいました。あなたはその憐れみを受けた見本です。こんなに多く神から罪を赦していただいたのですから、主イエスが「広い心」をお持ちであることを、言葉と生き方とをもってみんなに証しないさい。…つまり、キリスト者の“広い心”の源には罪人を赦す主イエスの深い愛の心があることを主張しているのです。

 「広い心」を「理に叶った」と翻訳することも可能だそうです。理に叶って一つの筋を通す。義しさ(ただしさ)を貫くのです。「広い心」「寛容」というと「大目に見る」…つまり筋を通さなければならないのに「いい加減でごまかす」ということにもなりかねません。我々は無責任な“曖昧さ”を好みます。しかし、人間の罪は徹底的に糾弾されなければなりません。だからこそ主イエス・キリストは十字架について下さいました。十字架に「理に叶った」神の「広い心」が現れているのです。

2012年6月3日 礼拝説教要旨

主題聖句:「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

         フィリピの信徒への手紙4章4節

説教主題「喜びの確認」

 この手紙は“喜びの手紙”と呼ばれています。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と既に(2章17,18節)でパウロは述べています。感情は最高潮です。交響曲にはテーマ(主旋律)があって、それが少しずつ調子を変えて、全体の中に時折現れます。それと同じように、この手紙の底流には “喜び”が基調音として流れているのです。

 「喜びなさい!」と言われると、喜びを押し付けられているように感じます。「喜ぼうと思って簡単に喜べるくらいなら、何も苦労はしません。喜べない状況の中にいるから悩んでいるのじゃないか!」と反発を感じるかたもおられるでしょう。だからといって「無理に作って、喜んでいるかのように見せかける」のは虚しいことです。

パウロは第3章から「主にあって喜べ!」と強調します。空っぽの井戸から水を汲み出すことは出来ません。こんこんと湧き出る泉から尽きない水が流れ出るように、キリストという源泉が喜びを生みます。牢屋につながれ、明日は処刑される身の上なのに、どうしてパウロ先生は喜べるのだろう? ! とても喜べるどころではないはずなのに…。

 喜ぶことのできない状況の中でこそ、その現実を突き破って喜ぶことはできるはずです。「キリストを信じている者は喜べる!」キリスト者は喜べる現実の中に置かれています。この命令は、押し付けではなく、喜べる現実にいることを悟らせ、信者を喜びの中に招いているのです。


2012年5月27日 礼拝説教要旨

主題聖句:「わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」      

フィリピの信徒への手紙4章2節

説教主題「喜びの確認」

 エポディアにしてもシンティケにしても、この箇所にしか出てこない固有名詞です。二人が婦人でフィリピの信者の交わりをつくりあげるのにパウロと共に戦ったということくらいしかわかっておりません。(3節)ただ、どうも二人は仲違いしているようで、「主において同じ思いを抱け」と名指しでパウロから勧められています。良いことで手紙に名前を書かれるならまだしも、同じ思いが持てないことで勧められると、恥ずかしかったし、反論したい気持ちもあったかもしれません。その後2000年、キリストの教会で、このような形で名が残ることになるとはこの二人、夢にも思わなかったでしょう。「あの二人仲が悪かったんだって」と言われるより、「あの二人はお互い同士を愛しあい、赦しあう関係だった」と言われる方が良いに決まっています。

 パウロは、自分だけが罪を犯したことがなく、公正な裁判官の立場に立って、過ちを糺してやろうとしているのではありません。自分も主イエス・キリストに罪赦されたものとして、勧めているのです。「勧め」は「お説教」をする(ガミガミと小言を言う)ことではなく、「慰める」のです。この二人の婦人が勧めの言葉を受け入れてくれるように「真実な協力者」に助力を求めます。高みから叱られただけでは、二人は心を閉ざし反発するだけかもしれません。この「協力者」とは「共にくびきを負うもの」という意味があります。この婦人たちだけを悪者にせず、執り成し助ける仲間の存在が、「慰め」には必要なのです。

2012年5月20日 礼拝説教要旨

主題聖句:「このように主によってしっかりと立ちなさい。」

         フィリピの信徒への手紙3章20節

説教主題「しっかり立て!」

 

 赤ちゃんはハイハイからつかまり立ちをして、トコトコと歩き始めます。初めはおぼつかなくて、今にも転びそうです。見ている方はハラハラします。しかし、歩いているうちに筋力が鍛えられ強くなるのか、手すりや支柱にすがらなくてもしっかり独り立ちできるようになります。

 「(あなたがた)は立ちなさい」と命令法で訳されている元の単語は「(あなたがたは)いま立っている」という直接法と同じ綴り字です。綴りからだけでは区別がつかないので、「あなたがたは今立っています」と訳しても差し支えありません。主イエス・キリストに支えられてしっかりとすでに立っているのです。キリストが杖となり、柱となってくださいます。自分の力で無理に踏ん張って立つ必要はありません。「主によって」と書いてあります。むしろ自分の力を捨て、主イエス・キリストの力によってのみ生きようとするかどうかにすべてがかかっているのです。

 何もキリスト様のお世話にならなくても、自分の力で充分に立っていけるとうぬぼれていると、足元を救われてしまいます。〝危ない〟と気が付いていなければさらに性質が悪い。

 キリストによって救われ、キリストの力によって生きている人のなかには 目に見えない〝キリスト〟というしっかりとした芯棒が大地から大空に向かってそびえています。「キリストに支えられてあなたがたは既に立っている」「もっと、このお方に全体重を預け、この方によってだけ、これからも立って歩いていきなさい」と言われているのです。

2012年5月6日 礼拝説教要旨

主題聖句:「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、待っています。」

フィリピ3章20節

説教題「我らの国籍は天にあり」

 わたしたちの親しんだ口語訳には〝本国〟ではなく、〝国籍〟となっておりました。キリスト教の信者さんの墓石に「我らの国籍は天に在り」と刻んであるのを時々見かけます。〝国籍〟の方が馴染み深いかもしれません。〝本国〟というと外国の宣教師や外交官を思い浮かべます。指令は本国からきます。しかし、後方にあって現地の最前線にいる人々を支えるのも本国です。これらの人々は異国の地で生活していても本国の法律で守られています。

 〝天〟とは今わたしたちが生きているこの世、地上の世界と相対立する所です。地上と相対するものとして、コロサイの信徒への手紙第3章1節では〝天〟ではなく、「上」という言葉を用います。そこには復活され、高挙された主イエス・キリストが神の右の座におられます。キリストが救い主として君臨し、支配を及ぼしておられる場所といっても良いでしょう。パウロ先生が「わたしたちの本国は天にあります」というとき、つまり〝わたしたちは救われている!〟と言っているのです。きっと力の籠った大きな声に違いありません。―その本国からイエス・キリストがすでに始まっている救われた生活を完成するために来てくださる。―キリストが来てくださることを待ちわびて、待ち遠しくして仕方がないという気持ちが伝わってきます。それは、永遠の世界にあこがれるあまり、今の地上の生活を忘れ、おろそかにするのではありません。キリストを待ち焦がれる信仰が、現実の戦いを耐え抜く力となるのです。

2012年4月29日 連載(きょうどうNo.18)

「失われた息子(二人の息子)の譬え」の連載を今回は都合で休みます。因みに前回は今年1月29日の週報が第9回でした。

 

ニコデモについての黙想:ヨハネによる福音書第3章1~16節
主イエスがニコデモに言われた言葉…「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 

新約聖書の中に、主イエスともう一人の人とが言葉を交わす場面があります。内容も興味深いものが多いのです。ヨハネ福音書第3章に登場するニコデモに主イエスはいきなりズバッと核心部分を語られました。それに対してニコデモは「人が新しく生まれる、あるいは生まれ変わるなんて合点が行かない」と正直に反応します。「自分も過去を清算して、すべてをやり直したい。できることならそうしたい。でも実際には、いくらそんなことを願ったとしても誰も出来はしないじゃないか。」ニコデモが〝とんちんかん〟な答えをしていると軽々しく非難することはできません。意識するとしないとに関わらず、だれもが共通に持っている考えだと思います。本当は言いたいのだけれど、言えないことを私に代わってよく言ってくれたとニコデモさんに感謝したくなります。
これに対して主イエスは「誰でも水と霊とによって生まれなければ…」と言われました。教会で洗礼を受けることを思い浮かべます。水の中に全身を浸すと同時に神の霊が注がれる。洗礼において人間を全く新しく造り変える神の力が働かれるのです。(今回読み切り)

2012年4月22日 礼拝説教要旨

主題聖句 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


ヨハネによる福音書20章29節

説教主題「あなたがたを つかわす」

 弟子たちのところに復活の主が来られた時、トマスはその場におりませんでした。甦りが信じられず、人を避けてあちらこちらさ迷い歩いていたのではないかと思います。そのトマスが8日の後には再び仲間のところに帰ってきました。トマスとイスカリオテのユダ以外の十人は復活の主イエスにお目にかかり、すでに信じています。そこに帰って来たのは、トマス自身も受け入れようという気持ちになっていたのでしょう。

弟子たちの集まりの中に主イエスは来てくださいました。手の釘跡、脇腹の槍の跡に指や手を突っ込んでみなければ信じないとトマスは言い張りました。そのトマスに向かってまっしぐらに進み、「あなたの主張している通りにしてごらん!」と主は言われました。そのあとトマスが実際に手を入れたかどうかは書いてありません。トマスの目の前に主イエスはいらっしゃいます。またそのように声をかけていただくだけで十分だったのでしょう。8日前、「決して信じない」などと息巻いていたことが恥ずかしくなっていたのかもしれません。そしていろいろな思いを「わたしの主、わたしの神よ」という信仰を言い表す短い言葉に込めました。もはや自分の目の確かさや指や手の感触の確かさなどではなく、目の前におられる甦りの主イエス・キリストだけが信じられると分かったのです。信じられなかったトマスが信じる者に変えられました。主イエスが熱意をもって主は近づいてゆかれたからこそそうなったのです。そのためにどれほど深く祈っておられたことでしょうか。

2012年4月15日 礼拝説教要旨

 

主題聖句 「11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。」  

マルコによる福音書16章14節

 

説教主題「新しい言葉を」

 香油を塗るためにお墓に行ったマグダラのマリアたちも、主イエスが新しい体によみがえられ、墓を後にされるのを見たわけではありません。天使と思われる白い長い衣を着た若者が、主イエスが復活されたことを告げ、空っぽの墓を「さあ、ご覧なさい!」と示しただけです。おそらく主の体がなかったのでしょう。しかしこのマリアをはじめとする婦人たちはただ恐ろしがるばかりで、天使から「男の弟子たちに甦られたことを知らせよ」と言われていたのに、だれにも話をしませんでした。

 そのマリアに主イエスはまずご自身をあらわされたのです。私たちが「復活」と聞くと、何か信じられる証拠はないかと探し始めます。空っぽの墓も間接的な証拠にはなるかもしれません。しかし「誰かが盗んだのだ」と反論されればそれでおしまいです。

 恐怖のために沈黙を守っていたマリアに復活の主は近づき、呼びかけ、語りかけて、ご自分を現わされます。そうすることによって初めてマリアは信じることができました。マリアが信じられる証拠を集めて、いろいろ検討し、その結果、初めて納得したというのではありません。死んだ人が蘇生する〝世にも珍しい不思議な出来事″を無理に受け入れることとも違います。マリアはかつて主イエスによって7つの悪霊を追い出してもらいました。窮地を救ってくださったお方の甦りだからこそ、恵みの事実として喜んで受け止め、感謝したのです。