2014年10月12日 礼拝説教要旨

聖霊を冒瀆するな

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第3章19-30節

主題聖句:「…聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負う」

マルコによる福音書第3章29節

 

先週の箇所では、12人を主イエスが任命された目的が書いてありました。(3章13節、14節)それは、①使徒たちを側に置くため②派遣して宣教させ、③悪霊を追い出す権能を持たせるためだというのです。

 

②と③の間か③の次に「病をいやす権能を持たせる」が入っても良さそうな気がします。ガリラヤで宣教を始めた時、主イエスが病を癒される行為に人々は強く引きつけられました。しかし、ここでは癒しの業は省かれています。それに比べて、〝悪霊追放〟の方は目的の一覧表にちゃんと挙がっています。しかも〝宣教〟と〝悪霊追放〟が並べて書いてあることから判断して、二つは一見関係ないように見えて、深いつながりがあるのでしょう。

 

「悪霊が人に取り憑いた」などというと、現代人は付いていけません。心の病の原因がわからないので、当時の人々は「何でも〝悪霊〟のせいにする」と理解します。しかし、悪霊の働きとしか考えられないものは、現代でも起こらないのでしょうか。人間には理性があるはずです。それなのに、紛争地域での残虐行為のニュースを世界中のいたるところで聞きます。

 

主イエスが教えを宣べ伝える、つまり説教されるのは、この世に働いている力、神に敵対する勢力を滅ぼすためなのです。その力とは罪と死の力といっても良いでしょう。十字架と復活において罪と滅びに対して、勝利を収められます。宣教の初期の段階では、そのことははっきりとはわかりません。悪の力や罪と死とを滅ぼすために主は来られました。そのことを予め示すために、主イエスは悪霊を追い出されたのです。

 

2014年10月5日 礼拝説教要旨

弟子を招く

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章13-19節

 

主題聖句:「イエスが…これと思う人を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。…彼らをそばに置くため、また、派遣して宣教させ…」

マルコによる福音書 第3章13

                                    

「これと思う人を呼び寄せ…」とあります。主イエスが多くの人の中から選び抜かれたのです。ワールドカップの日本代表選手は「代表に呼ばれた」と表現します。どんなに選ばれたいと思っても、監督にその気がなければ無理です。「選抜」は選ぶ権利のある人の意志が拠り所となります。

 

「呼び寄せる」…良い日本語です。主イエスの方にご自身が12人をグイッと引き寄せるイメージがあります。弟子たちが少々ためらっていても、主の引っ張る力があまりにも強いため、抗えない印象を持ちます。嫌な人から強引なことをされると迷惑でしょう。しかし、イエス様ならそんなことはありません。主イエスのほうがグーンと距離を縮めてくださるのです。「そばに」という言葉が繰り返されています。主イエスのおそばにおらせていただけるなら、どんなに幸いでしょうか。「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」と言われたお言葉を思い出します。

 

サッカーであれば〝選抜〟の目標は大会での優勝です。何もしないで選手と一緒にいるためではありません。しかし、12弟子選抜の目的は「派遣して宣教させる」以前にわざわざ「そばに置くためだ」とマルコは明言しました。順番としては「そばに置くため」が優先され、宣教より大事なのかもしれません。弟子たちを使って組織拡大を図ることが目的ではなく、ただそばに居てくれれば良いということでしょう。主イエスが、淋しいからではではありません。相手が何もしなくても“ただ一緒にいるだけで嬉しい”のが愛だからです。愛から出発してこそ、宣教も意味を持ってくるのです。

 

2014年9月28日 礼拝説教要旨

安息日の主

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章1-6節

主題聖句:「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

マルコによる福音書 第3章4

                                    

主イエスの立ち振舞に対して批判的に観察し、口出しをする人々が現れます。ファリサイ派です。主イエスや弟子たちに近づき、「あなたがたの行動は律法に反するのではないか」と質問をしてきます。…①主イエスが徴税人や罪人たちと食事までして交わっておられる②安息日であるのに弟子たちが麦の穂を歩きながら積むのを主イエスは放任しておられる。…これらの行状はファリサイ派の判断基準に照らすと、律法違反に当たります。主イエスの振る舞いは許しがたいのです。特に安息日の掟にこだわっていました。

 

安息日はもともと人に命を与え、恵みを与えて救うために神がお定めになったものです。言葉を変えて言えば、〝人を愛しなさい〟ということでしょう。ファリサイ派の人々は自分たちで作った掟にしがみつくあまり、安息日の根本のところがわからなくなっています。掟そのものが神にでもなっているかのようです。それは、ファリサイ派の人々だけの問題ではなく、わたしたちもまた、簡単に陥る罠のようなものではないでしょうか。

 

冒頭の御言葉は主がファリサイ派の人々にされた質問です。だれが考えても「善いことをし、命を救うこと」に、答えは決まっているように思えます。しかし、ファリサイ派は答えません。いや答えることができないのかもしれません。主イエスが安息日に人を癒やしても良いことになり、自分たちの主張と矛盾するからです。そこまで心が頑なになっていました。主イエスは、彼らの反発を恐れず、掟ではなく神の恵みによって生きるように、片手の萎えた人を癒されました。律法の呪縛から解き放とうとされたのです。

 

2014年9月21日 礼拝説教要旨

魂をあがなう主

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章1-6節

 

主題聖句:「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。」

 詩編第49編 16節   

                                 

今日は主のみもとに召された方々を記念して礼拝をささげております。「後世への最大遺物」という講演の中で、内村鑑三は〝勇ましく高尚なる生涯〟こそ、後の時代に残すことのできる最高の遺産だと申しました。「この世は悪魔の支配ではなく、神の支配にある」…このことを信じる信仰こそが〝高尚な生涯〟を生み出す…と内村先生は言われます。

 

「自分たちは神のご支配のもとに生かされ、また支配のもとで死に、今もその支配のもとにある」と在天者の方々が語っておられるように感じます。

一度死んでしまうと、巨万の富を築いた人でも、その大金を積んだところで、死んだ自分の命を買い戻すことはできません。これが、詩編第49編が語るところです。その事実に反対する人はだれもいないでしょう。

 

死んだ者のゆく世界を聖書では〝陰府〟(よみ)と言います。そこにいる死人を羊に喩えると〝死〟が羊飼いになるでしょう。その世界では〝死〟がのさばり、死人たちをいつまでも自分のもとに縛り付けておけると豪語しています。〝陰府〟では死が絶対的権力者であるかのように思えるのです。

 

この詩では、私の身も魂もすべて神が救い、〝陰府〟から解放して下さると告白しています。主イエスが甦られる何百年も前に、わたしたちをも活かして下さる復活の力を予め知っているかのようです。死者を〝陰府〟の手から救い出して下さる神の力はキリストの甦りの中にあります。先輩方はその福音を聞き、「自分たちもやがて復活する!」と信じて召されました。その信仰に続くようにと記念礼拝において、私たちを励ましておられるのです。

2014年9月14日 礼拝説教要旨

新しいぶどう酒は新しい革袋に

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第2章18-22節

主題聖句:「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」

マルコによる福音書 第2章19節

多くの宗教において〝断食〟に類する苦行を求められることがあります。「普通以上の真面目な生活をしなければ、救われないし、しっかりした信仰生活を送っていることにはならない」と多くの人が考えます。
わたしたちの教派、教会で、〝断食〟を信者さんに強要することはありません。それは「花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」と言われた主イエスの言葉に根拠を置いているからでしょう。〝断食〟は救われるための絶対条件にはならないのです。
信仰生活を〝婚宴〟に主は譬えられました。花婿は主イエスさまです。私たちは客として披露宴に招かれています。その宴席に喜びが満ち溢れるのは、ごちそうが並べられ、余興で盛り上がるからではありません。それより花婿と一緒にいることが喜びの源なのです。この主イエスと私たちとの関係を抜きにして、信仰生活を考えることはできません。
〝断食〟など、宗教的に良い行いと考えられるものがあります。苦行、禁欲、修行などがそれに当たります。善行がイエス様との深いつながり作るなら、多いに奨励しなければなりません。しかし、〝断食〟がそのような絆を、果たして作ってくれるでしょうか?
「神の国はきた」といって主イエスは宣教を開始されました。重い皮膚病の人、徴税人、罪人との交わりにも積極的に入っていかれました。これらの人々は主イエスが一緒にいてくださるから嬉しいのです。禁欲の〝断食〟より、祝宴に譬えられる方が、この喜びをよく表しているではありませんか。

2014年8月31日 礼拝説教要旨

 

神の前にひとり立つ時

 

政所 邦明 牧師

 

創世記 第32章23-32節

主題聖句:「…何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。…『祝福してくださるまでは離しません。』」            

創世記 第32章25,27

                                    

双子として生まれたヤコブは、出産の時、先に生まれた兄エサウのカカトを掴んでおりました。これは、兄を押しのけ〝足を引っ張る〟その後のヤコブの生き方を象徴的に現しています。

ずる賢い手を使い、兄から長男の特権を譲り受け、目が薄くなった高齢の父イサクを騙します。兄になりすまして、長男だけが受けられる「祝福の祈り」をも奪ってしまったのです。「何もかも思い通りになった」とヤコブは思ったでしょう。ところが兄エサウの大変な恨みをかいます。そこで、身の危険を感じたヤコブは、伯父を頼って外国に逃げることになりました。

 

家畜を増やすことに才能を発揮し、羊や山羊をたくさん持つようになると、今度は伯父から妬まれます。ある時、「故郷に帰りなさい」とヤコブに神は言われました。兄の元を去ってから20年。長い歳月は経っても「兄さんはまだ怒っているだろうな」と思います。そこでおびただしい数の羊と山羊と贈り、兄の怒りをなだめようとします。しかし、そのような小細工では本当の〝和解〟は与えられないと気が付いたのでしょう。たった一人で、一晩必死に祈ります。聖書はそれを〝神との格闘〟と表現しました。足の筋を痛めしまうほど集中して祈ったようです。ホセア書ではヤコブは神に〝泣いて恵みを乞うた〟(第12章5節)とあります。兄の足を引っ張る生き方はヤコブの反逆でした。神の定められた次男の立場に満足できなかったのです。神と争い、神の顔をまともに見られなくなっていたヤコブが、神と〝顔と顔〟とを合わせ、そこからエサウに面と向かう勇気が与えられたのです。

 

 

2014年8月24日 礼拝説教要旨

名を告げる神

 

政所 邦明 牧師

 

出エジプト記 第3章1-17節

マルコによる福音書 第3章13-19節

主題聖句:「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。」

 出エジプト記第3章15節 

    

 

神の山ホレブで、神はモーセにご自分を現されます。イスラエル人として生まれたモーセは、事情により外国ミディアンの地で40歳から80歳まで羊飼いとして生活をしていました。このモーセを神はお立てになります。エジプトからイスラエル人を連れ出す指導者に召されたのです。

 

「モーセよ、モーセよ」と親しく名を呼んで、近づいて来られる神は、ご自分がモーセの「先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と名乗られました。同胞イスラエルはエジプトで、強制労働をさせられています。その同胞イスラエルを、苦しみから救い出すように神は、命じられるのです。そのためには、エジプトの王ファラオと対決しなければなりません。自分にそのような大役が務まるかどうかモーセは不安でした。そこでたまらず、神の名を尋ねます。不遜なことのようにも思えます。しかし、〝どこの何と言う神様〟が命じられたのかをハッキリと伝えなければ、イスラエルの人々は自分を指導者として信頼してくれないだろうと思ったのでしょう。

 

最終的には神は〝主〟(ヤーウェ)という名を明かされます。その前に「わたしはある。わたしはあるというものだ」と言われました。“名を知る”とは相手の存在を自分の手のうちに治めることを意味します。人が神の名を知れば、悪用しかねないことも起こるでしょう。しかし、神は人間が自由に操れるお方ではありません。自らのご意思でモーセをお選びになりました。「ある」には「ある者を○○にならせる」という意味があります。無力なモーセに力を与え、指導者にふさわしいようにされるのは神ご自身なのです。

2014年8月17日 礼拝説教要旨

視野を拡げて

 

政所 邦明 牧師

 

ヨナ書 第4章1-11節

マタイによる福音書 第12章38-41節

 

主題聖句:「お前は、…とうごまの木さえ惜しんでいる。…どうしてわたしが、…都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。…」  

ヨナ書 第4章11節 

                                   

ヨナ書は3ページほどです。一気に読んでみてください。悪の満ちた隣国アッシリアの首都ニネベの町に神は裁きを宣告なさいます。その使者として選ばれたのがヨナです。最初、神からのお召があった時、ヨナは嫌がって逃れました。さんざん神の民イスラエルを苦しめたアッシリアです。滅ぼされれば清々すると思ったのでしょう。逃げようとするヨナを連れ戻し、再びニネベの町に滅びを告げる器としてヨナをお用いになるのは神です。

 

宣教をしてみると、ヨナの予想に反して、ニネベの王は素直に態度を改めました。そして、人も家畜もみんな、悪の道から離れるように布告を出します。その様子をご覧になった神は、災いを下すのをおやめになりました。

 

裁かれるのをおやめになった神のなさり方はヨナには気に入りません。イスラエルの人々だけを〝ご自分の民〟としてお選びになったのです。外国のアッシリアに憐れみをかけられるのはおかしいと思ったのでしょう。ましてこの国はイスラエルの宿敵です。狭い〝選民意識〟にヨナは凝り固まっておりました。ヨナはひねくれ、神に対してふてくされるのです。

 

“あなたの神は小さすぎる”と言う言葉があります。ヨナは自分の小さい尺度で神を測りました。「わが思いは汝の思いと異なれり!」と神は言われます。慈愛に満ちた神を人間の枠内で捉えきることはできません。自棄(やけ)を起こすヨナに寄り添い、いろいろな手立てを用い、視野の狭くなったヨナを連れ出して、ご自分の大きさを神は見せようとなさいます。神に立ち返る悔い改めはニネベの町のみならず、ヨナ自身にも必要だったのです。

 

2014年7月27日 礼拝説教要旨

宣教する力

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第1章29-39節

 

主題聖句:「イエスがそばに行き、手をとって起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」         

マルコによる福音書 第1章31

                                    

 

「神の国は近づいた」と言って、ガリラヤで主イエスは伝道を開始されました。(第1章15節)神のご支配は始まったのです。主がお声をかけると、まるで磁石に鉄が吸い付けられるように4人の漁師が弟子となり、ついて行きました。神の強い御手がこの人たちを捕まえたと言ってもよいでしょう。

 

カファルナウムの会堂で、安息日に礼拝を献げておられる時のことです。汚れた霊に取り付かれている男が騒ぎ出します。そこで男から汚れた霊を主イエスは追い出されました。その安息日の礼拝の後、シモン・ペトロの家にゆかれ、高熱で苦しむペトロの姑(しゅうとめ)を癒されます。

 

「解熱剤も抗生物質も使わず、主イエスが手を取って起こすだけで、急に熱が引くはずがない。迷信めいた非科学的なことを福音書が報告するものだから、聖書の内容は信じられない!」という人もおられるでしょう。

 

①弟子たちが主イエスの言葉に吸い寄せられる。②汚れた霊を追い出される。③姑の熱がひき、常識では考えられないような驚異的な回復を見せる。…これらはすべて〝神のご支配が始まっている〟ことの目に見える「しるし」なのです。

 

わたしたちは自分たちの小さな経験から“奇跡的なことは絶対に起こらない”と勝手に決めつけています。しかし、これらのしるしは神様が入念に準備し、人間に対して〝よくあれかし!〟と願われたことを証するものです。神のご支配が実現したことを表しています。奇跡でも何でもありません。神さまにとっては当然起こるべくして起こった愛の業、憐れみの業なのです。

2014年6月1日 礼拝説教要旨

人の知恵と神の知恵

 

政所 邦明牧師

 

サムエル記下 第15章7-16節

サムエル記下 第15章30-37節

 

主題聖句:「ダビデは、『主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください』と祈った。」            

サムエル記下 第15章31

 

落ちぶれた時、あるいは逆に成功して有頂天になった時、その人の真価が問われるのではないでしょうか? 

 

息子アブサロムの反逆のため、ダビデは、エルサレムを離れ、逃亡生活を余儀なくさせられました。100%だれからも支持を受ける人などひとりもおりません。ひとつの政権ができると必ず不満を持つ人々が現れるものです。国内を統一したとはいえ、「一旦事あらばダビデの足元を救ってやろう」とする人がいても不思議ではありません。利害が一致すれば、徒党を組む人々も出てくるでしょう。担ぎあげた人々にとって、自分たちの主張を通すのに、アブサロムは格好の人物だったのかもしれません。若くて操りやすいからです。

 

内心ハラハラして、アブサロムをダビデは見ていたのではないでしょうか?「利用され、価値が無くなったら捨てられるに決まっているのに、それがわからないのか!」と息子を心配していたはずです。厄介な人物がアブサロムの側につきました。かつてダビデの顧問官をしていたアヒトフェルです。裏切って敵方に行ったのです。“これで百人力を得た”くらいにアブサロムは思ったでしょう。しかし、ダビデは祈ることを知っていました。「どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」人間の策略など、神の知恵に比べれば取るに足りません。神が世の知恵を愚かにされるからです。危機に際して祈ることをダビデは知っていました。

 

その事こそが、ダビデの信仰のあり方の真骨頂だったのです。