2017年7月2日 礼拝説教要旨

イエスは主、メシア

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第2章22-36節

 

主題聖句:しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。                  

使徒言行録第224

              

主イエスが天に上られた後、弟子たち初め多くの人たちは、一か所に集まって約束の聖霊が降るのを祈り求めていたところ、五旬祭というユダヤの祭の日に、祈っていた彼らは聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で神の偉大な御業を語り出したのです。

 

大きな物音に集まって来たエルサレムのユダヤ人が、弟子たちの大胆に語り伝える姿を見て大変驚いたり、嘲ったりしました。それで、弟子ペトロは声を張り上げて、自分たちがなぜこのように大胆に語るようになったのかその理由を語り出したのです。

 

今日の箇所では、エルサレムで起こった主イエスの十字架と復活の意味を説明し、聖霊の降臨との関係を説いています。まず主イエスが地上でなさった驚くべき奇跡、不思議をなさったことの意味を語ります。そのことによって主イエスが神から遣わされた方であることが現されたのです。次に、この主イエスがユダヤ人に捕らえられ、死刑に定められ、十字架につけられたのは、偶然の出来事ではなく、神の御定めになった計画によったのだと語ります。しかも、あなたがたがローマ総督や兵卒によってこの方を十字架につけて殺したのだと指摘します。しかし、神はイエスを死のままにされず、復活させられました。イエスが神からのメシアだからです。

 

2017年6月25日 礼拝説教要旨 藤井圭子先生

   『 道・真理・命 』   

藤井圭子 先生

ヨハネによる福音書 第14章1-7節

主題聖句:イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のみもとに行くことができない               

              ヨハネによる福音書 14章6節

私は14歳の時、一人の人の死を通して、「生と死」の問題を考えるようになり、その解決は仏教の中に見出せると思い、京都の尼僧道場を訪ねて尼僧となり、誠心誠意、勉学修行に励みました。しかし、私の求めたものは仏教の中には見出せず、大変な失意のうちに還俗し、元の小児科医に復帰し、やがて結婚しました。

 

そんな私の所にイエス様は来てくださいました。というのは、私の家のすぐ隣にキリスト教の教会堂が建てられ、その献堂式に私は招かれて出席しました。

 

それから3年後、神様は夫婦の愛情問題を通して、私自身の偽善の罪を気づかせてくださり、その悩みのどん底の時、隣の教会の献堂3周年記念の集会を開き、わたしを列ならせてくださいました。

 

私は講師の先生のお証しを聞きながら、「イエス様、私もあの先生のように、あなたを信じたい!助けてください!」と心の中で叫んでいました。イエス様はそんな私の叫びをお聞き下さり、その夜、私をご自身の尊い御救いにあずからせてくださいました。

 

若き日、尼僧となってまで探し求めていた「道、真理、命」は主イエス様ご自身でした。主の御名はほむべきかな!アーメン。

2017年6月18日 礼拝説教要旨

聖霊の預言

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第2章1-7節

『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

                      使徒言行録第2章17

 

聖霊降臨の日、聖霊に満たされた主の弟子たちが外国のことばで力強く神の御業を語ったので、それを聞いた人々の多くは、さらに聞き耳を立てました。しかし、ある人々は「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざけりました。

 

それゆえ、ペトロは弟子たちを代表して、そこにいた人々に声を張り上げて、聖霊降臨の意味について話し始めたのです。不当な中傷に対して彼は黙って聞き流さながさず、弁明をしたのです。

 

「今は朝9時ですから、酒に酔っているのではありません。」朝9時はユダヤ人にとって祈りの時でした。朝の祈りの後、朝食を取っていたので、今、酒に酔っていることはあり得なかったのです。そうではなく、このように聖霊に満たされて大胆に神の御業を語っている姿こそ、旧約の預言者ヨエルによって預言されていたことが成就したのだと説明したのです。旧約時代には、預言者だけが神の言葉を語っていたのですが、終わりの時、すべての人が聖霊を受けて神の言葉を語るようになったというのです。

2017年6月11日 礼拝説教要旨

子どもの祝福

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章13-16節

 

主題聖句:しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。     

マルコによる福音書第1014

              

今日は、教会の暦では、子供の日です。これは19世紀末、日曜学校運動の中から生まれて来た日で、教会に集まる子どもたち、この社会で育つ子どもたちのために祈る日です。

 

子どもは、無限の可能性を持つ大きな希望ですが、弱くて病気しやすいもろい存在です。ですから、子どもたちが元気に成長してほしいと親たちは願っています。

 

そのような願いを持つ親たちが、祝福をお願いしようと、子供を主イエスのもとに連れて来たのです。しかし、弟子たちはこの人々を叱りました。主イエスがいつもお忙しく大変なので、子どもたちのことまで手を煩わすのは大変だと思ったからです。子どもたちを低く見ていたのです。

 

しかし、主イエスはそれを見られて、ひどく憤られたのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」神が、主イエスが子どもたちを呼んでおられるのです。それは、神の国、主イエスにおいて現された神のご支配は、このような者たちのものだからなのです。神の国はこのような者、弱く、小さくて差し出されたものを無心で受け取る子どもたちのような者の国だからです。だから、子どもたちのように、無心で神の祝福を受け取る思いで主イエスからの祝福を求めていきましょう。

 

2017年6月4日 礼拝説教要旨

聖霊の降臨

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第2章1-11説

主題聖句:すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。                

使徒言行録第24

              

今日は、教会の暦では、聖霊降臨日です。約束の聖霊を待ち望んでいた主イエスの弟子たちの上に、聖霊が降り、聖霊に満たされて、彼らは大胆に主イエス・キリストを宣べ伝え始めました。するとそのメッセージを聞いた人々が心刺され、悔い改めて信じる人々が起こされ、信じる者の群れ(教会)が誕生しました。このように人々を救い、教会を生み出した聖霊を覚えるのです。

 

主イエスが天に上られた後、弟子たち初め多くの人たちは、一か所に集まって約束の聖霊が降るのを祈り求めていたところ、五旬祭というユダヤの祭の日に、祈っていた彼らの場所に、天から激しい音が響き渡り、炎のような舌が一人一人の上に留まったのです。そして彼らは聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語り出したのです。大胆に神の偉大な御業を語り出したのです。

 

大きな物音に、ユダヤの祭のためにエルサレムに集っていた信心深いユダヤ人が集まって来たところ、目の前で、主イエスの弟子たちが聖霊に導かれるままに、大胆に神の偉大な御業(主イエスの十字架と復活の御業)を語り伝える姿を見たのです。あの弱々しかった主イエスの弟子たちが大胆に語る言葉とその内容が、集まって来た人々に分かる言葉であり、彼らは大変驚き、そのメッセージに心開かれました。驚くべき聖霊の御業です。

2017年5月28日 礼拝説教要旨

約束の聖霊

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第1章3-11節

 

 

主題聖句:そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。                                 

  使徒言行録第14

              

死人の中から復活された主イエスは、40日の間、使徒たちの前に姿を現され、数多くの決定的な証拠をもって、確かに復活され生きておられることを示されたのです。40日の間、主イエスは神の国について彼らに話されました。主イエスが地上を歩まれて宣教活動を始められた時以来、ずっと神の国が来たと語られていました。神の国とは、神のご支配です。主イエスの働きによって神がここにおられるのです。主イエスの復活によって一層神がご支配してくださるのだと教えられたのです。

 

しかし、主イエスはいつまでも使徒たちの前に目に見える姿で共におられるわけではありません。父なる神のもとに帰って行かれる時が近づいていました。主イエスは使徒たちに、これからなすべき使命を託されます。その使命は、主イエスが私たちを救うために御業を成し遂げられたことを証しすることです。その使命を行うことが出来るように、聖霊によるバプテスマが授けられるから、エルサレムを離れないで父なる神の約束された聖霊を待ちなさいと命じられました。

 

父なる神の約束された聖霊は、主イエスから教えられていた「別の弁護者」と呼ばれる方です。この聖霊がイエスを信じる人の心に住み、いつも共にいて助けてくださるのです。

 

2017年5月21日 礼拝説教要旨 

最も重要な戒め

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第12章28-34節

 

主題聖句:そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

マルコによる福音書1233

              

「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。神の掟は、本来は神から人間が健やかに生きる道として与えられたものです。しかし、人がその掟を一生懸命守ろうとするあまり、守ろうとして掟が増えて多くなり、しかもどれも守らなければならなくなり、どれが大切な戒めかよく分からなくなっていたのです。それで、律法学者は、主イエスに尋ねたのです。

 

すると、主イエスは、神を愛し、隣人を愛するこの2つの戒めが一番重要だと答えられました。神を愛すること。それは、神が私たち人間を創造され、愛され救い出して下さったのだから、全身全霊をもって神を愛さなければならないのです。もう一つは、隣人を愛することです。隣人とは、私たちと同じように神によって創造され愛されている存在です。彼らを自分のように愛すべきなのです。自分が神から愛されているようにその人も神から愛されているのだから、その人を愛するのです。この2つの戒めが最も大切な戒めだと主イエスは言われました。

 

しかし、神を愛し隣人を愛することを本気で実行することは簡単ではありません。守ることができず、神から遠い存在である私たちです。そんな私たちのために、主イエスは十字架に向かわれるのです。「あなたは神の国から遠くない」と呼びかけ、神の愛の中に招いてくださるのです。

 

2017年5月14日 礼拝説教要旨

生きている者の神

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第12章18-27節

 

主題聖句:イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

 マルコによる福音書122425

 

 私たちは、より充実した日々を過ごそうと励んでいますが、いつか死の時が来ます。死んだ後どうなるのでしょうか。

 

ある時サドカイ派の人々が主イエスに質問しました。彼らは現世だけがすべてで、死後の復活も死後の裁きもないと考えていました。その質問は長男が子なしに妻を残して死んでしまった。次男から始まって6人の弟がその妻と結婚したが、その兄弟も子を残すことはなく死んでしまった。もし復活があるとすれば、この婦人は誰の妻となるのか、というものでした。

 

主イエスはその質問に対して、あなたがたは聖書の言葉の表面だけを見て議論していて、聖書を人間を正し、生かし、支えてくれる力があると知ろうとしていないと嘆かれました。その上で、復活はこの世界の延長線ではありません。天国はこの地上とは全く違い、結婚も出産も病気も老いることも死ぬこともありません。きよめられて、一人一人が直接キリストと神に結ばれて永遠の祝福の中に生きるのです。天上の体、霊の体に変えられて神の前に生きるのです。

 

神は永遠に生きておられ、私たちを愛し私たちの神となって下さる。生きている時だけでなく死後も神の前に生かされる、と教えられたのです。

 

2017年5月7日 礼拝説教要旨

神のものは神に返しなさい

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第12章13-17節

主題聖句:イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

 マルコによる福音書1217

 

 

 「皇帝に税金を納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか。」と納税反対派と納税賛成派が一緒になって主イエスに尋ねて来たのです。どう返答するかによって、主イエスを陥れようとの下心のある質問 でした。

 

主イエスは直接答えられず、彼らにデナリオン銀貨を持って来させて、「その銀貨には誰の肖像と銘があるのか」と尋ねられ、その銀貨をよく確認するように求められました。

 

その銀貨には、皇帝の肖像と銘がありました。そして銀貨に皇帝の肖像と銘があることは、皇帝の権威と支配を示しており、皇帝の支配によって経済流通の秩序が支えられていることを示していたのです。そのように皇帝の権威と支配によって支えられているのであれば、皇帝の恩恵に対して税金によって返していくべきと主イエスは答えられたのです。

 

それに加えて、「神のものは神に返しなさい」と言われました。「神のもの」とは、神の権威と支配の及ぶところです。神の造られたものすべて、神によって創造された私たち人間も神のものです。皇帝も神のものです。私たち人間が神のものですが、主イエスの犠牲によってなお一層神に近づけられています。神のものとされていますから、神に感謝し歩むのです。

 

2017年4月30日 礼拝説教要旨

ぶどう園のたとえ

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第12章1-12節

主題聖句:まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。

 マルコによる福音書166

 

 ユダヤの指導者たちが主イエスに向かって、何の権威で、その教えやその働きをするのか、だれがそのような権威を与えたのか、と尋ねました。それに対する答えを、主イエスはたとえによって示されました。

 

そのたとえが、マルコ12:1~11です。「ある人」は父なる神を表し、「農夫たち」は神の民イスラエルを表しています。イスラエルの民は神から良く準備された素晴らしい環境を与えられ、よく世話をすることを期待されていました。時が経ち、神に収穫をささげるべきとき、イスラエルの民は神から遣わされた預言者たちを侮辱し、殺してしまいました。イスラエルの民は神を忘れ、神の言葉を退け、自分が主人となろうとしたのです。

 

そういう侮辱を受けてもなお神はイスラエルの民に働きかけられます。最後に愛する息子を送るのです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と誠意をもって彼らを信頼し期待して愛する息子を送り出すのです。彼らが神を敬ってくれることを願っての行動です。

 

しかし、たとえでは「農夫たち」はその神の思いをあざ笑うかのようにその息子を殺してしまいます。このたとえは神の御子イエスを殺してしまうことを暗示していました。けれども神はこの殺された息子の死と復活をもって、救いを成し遂げられるのです。人の目には不思議な御業です。