2018年4月15日 礼拝説教要旨

じる者になりなさい

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第20章24-29節

 

主題聖句:それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。…信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」          

ヨハネによる福音書 第20章27節

               

復活された主イエスは何度も弟子たちに、ご自分が復活され生きておられる事実を現されました。その中で弟子の一人トマスに現れたことは独特なものがありました。それは、主イエスが復活されたその日の夜、弟子たちに現れたとき、トマスだけがそこにはいなかったということです。トマスが彼らのところに戻って来た時、弟子たちから「わたしたちは主を見た」と聞いたのですが、それを受け止めることができませんでした。自分は主イエスのお身体の十字架の傷跡を見、その傷跡に自分の指を指し入れて見なければ決して信じないと言ったのです。それほど、彼は疑い深くなっていました。でも、そのトマスの思いは、私たちには何か親近感を感じさせます。私たちもそのような面があるのです。

 

その8日後、弟子たちがまた家の中にあり、トマスも一緒にいたとき、主イエスが前回と同じように彼らのところに現われ、平和があるようにとあいさつをされました。そしてトマスに上記に記した言葉を言われました。その言葉には、主イエスのトマスに対する愛情を感じさせられます。トマスにも、御自身が確かに十字架で死んだ。けれども神の御力によって復活し生きておられることを知ってほしいと願われたのです。その傷跡は生々しい傷跡でした。その姿を見たトマスは、主イエスを真の神、まことの主と信じますと答えました。信じる者は幸いなのです。

 

2018年4月8日 礼拝説教要旨

平和があるように

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第20章19-23節

 

 

主題聖句:その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」              

  ヨハネによる福音書 第20章19節

 

主イエス・キリストが復活された日の夕方、弟子たちにお姿を現されました。その時、語られた言葉が「あなたがたに平和があるように」でした。ヘブル語で「シャローム」と呼ばれる言葉で、今もユダヤ人の使うあいさつの言葉です。復活の主イエスはこの言葉をもって弟子たちにあいさつをされたのです。でも、主イエスがこの言葉を、繰り返し使っておられるということは、ただのあいさつの意味だけでなく、祝福する意味もあったのでしょう。

 

ヨハネ14章27節で、主イエスが、この世の与える平和とは違う、ご自身の平和を与えると約束しておられました。一時的なはかないものではない、神様による変わらない平和です。この平和を人が受け取れるように、復活の主イエスは,御自身の両手と脇腹を弟子たちにお見せになったのです。目の前にいる方にその十字架の傷跡があるということは、この方は間違いなく主イエスその方であることを示すものでした。しかも、主イエスを見捨てて逃げ去った彼ら弟子たちにもかかわらず、主イエスは今も生きて彼らを赦してくださったことを示すものでした。自分たちが赦されたと知って、彼らは主を見て喜んだのです。復活の主は私たちにも「平和があるように」と語り、喜びと平和を与えてくださる。

2018年4月1日 礼拝説教要旨

主は復活された

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第16章 1-8節

主題聖句:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

                       マルコによる福音書 第16章6節

 

今日はイースター、復活祝日です。主イエスが、神の全能の御力によって、死人の中から復活されたという神の御業を覚える日です。

 

しかし人の死ということは重い厳粛な事実です。主イエスは、十字架刑に処せられて確かに死なれ、墓に葬られました。その死の事実を多くの人も、女性の弟子たちも見ていました。墓に葬られた様も見ていました。ですから、彼女たちとしては、墓に行って主イエスのためにそのお体に香料を塗って差し上げたいと思ったのです。多く愛されたのだから愛をあらわしたいと思ってのことでした。週の初めの朝早く、彼女たちはその墓に着いて見ると、入口を塞いでいた大きな石が転がってしました。これ幸いにと、墓の中に入ったとき、そこに白い長い衣を着た若者が座っていたのでひどく恐れました。

 

墓の中にあるはずの主イエスのお体を見つけることができませんでした。その時、若者は言いました。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と。主イエスは復活されたのだから、ここにはおられないのです。それを聞いた女性たちには信じがたい復活の御業です。だからこそ神の方からその事実を示されて明らかになさるのです。

 

2018年3月25日 礼拝説教要旨

御心が行われますように

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第14章32-42節

 

主題聖句:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

                      マルコによる福音書 第14章36節

 

主イエスは弟子たちと過越の食事を終えて、ゲッセマネの園に行き、祈りの時を持たれました。ここに来て、主イエスはひどく恐れてもだえ始めておられるのです。地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈り始められたのです。

 

主イエスが今経験しておられる、苦しみはどのようなものだったのでしょうか。その時の弟子たちには、分からないことでした。当然私たちにも分からない事ですけれども、主イエスの語られた言葉や態度から推察してみたいと思います。主イエスが父なる神に「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られています。「この杯」とは、これから主イエスが飲もうとしていた杯です。それは、主イエスがではなく、私たち人間がその犯した罪の結果として受けなければならない神の裁きのことです。その裁きは人間が受けるべきものなのに、神は、人間にではなく、主イエスに身代わりに負わせようとしておられるのです。それが神の御心であったのです。御心と分かってはいても、主イエスはその裁きを目の当たりして、恐れ、取り去ってくださいと祈られたのです。霊的な闘いを経験して、ついにご自分が神の裁きを受けることを神の御心と受け止めて、主イエスは十字架に進んでいかれるのです。

 

2018年3月18日 礼拝説教要旨

仕えるキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章32-45節

 

主題聖句:一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。

                      マルコによる福音書 第10章32節

 

主イエスは都エルサレムに向かわれます。しかも、先頭に立って毅然とした態度で進んでおられました。それは、弟子たちには、驚きであり、従う者には恐ろしいことでした。主イエスの語る内容からして、エルサレムに行くことは非常に危険なこととは思っていたようです。

 

主イエスは、武力的なメシアとして、戦う集団としてエルサレムに向かおうとしておられるのではありません。戦う支度もないままエルサレムに向かっていく姿に、弟子たちも従う者たちも驚き、恐れています。

 

そして、主イエスは三度目となる苦難と死と復活の予告をされました。より具体的に、宗教指導者たちに引き渡されて、死刑の宣告を受け、異邦人からは侮辱され、鞭打たれ、殺されるとまで語られました。しかし、弟子たちが思い描いていたのは、主イエスはエルサレムで栄光を受けられるに違いないから、その時、自分たちをそれに次ぐ地位に置いてほしいという願いでした。彼らには、なぜ主イエスがエルサレムに行くのか分かっていないのです。

 

主イエスに従う道にはこの世の栄光、栄誉はない。主イエスに従う者は、主イエスと共に苦しみを経験しなければならないことがあるが、その先に、救いがある、と主イエスは示されるのです。主イエスは、多くの人々の身代金として自分の命を献げていかれるのです。

 

2018年3月11日 礼拝説教要旨

栄光に輝くキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第9章2-10節

 

主題聖句:六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

                        マルコによる福音書 第9章2節

 

私たちの生活を振り返ると、平々凡々、さほど代わり映えのしない生活をしています。そんな私たちには、今日の箇所にある、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き」ことは驚くべき出来事です。私たちがもしそのような光景を見たら、驚いて肝をつぶすことでしょう。

イエスの姿が「変わった」とは、今までとは外観と共に内面も変わったという意味です。今まで弟子たちが見ていた主イエスのお姿とは、全く別のものになったということです。このように、主イエスが光輝かれたその姿は、地上に人間としてお生まれになる前に、天の父なる神様と一緒におられて持っておられた栄光と言われます。神の御子としての栄光です。また、この姿は、主イエスが十字架につけられ、葬られた後、神の御力によって復活されたその復活の姿とも言われます。

 

山の上で主イエスが栄光の姿に変えられた時、旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れて、3人で話し合われたのは、主イエスが成し遂げようとされる十字架の苦難についてでした。その時雲が現れ、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と言う声がありました。苦難の道に進む主イエスを受入れる父の声でした。このイエスに聞くべきなのです。

2018年3月4日 礼拝説教要旨

キリストの苦しみ

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第8章27-33節

 

主題聖句:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

                      マルコによる福音書 第8章31節

 

この言葉は、主イエスご自身が間もなく経験される苦難を前もって予告されたものでした。「人の子」という言葉を使って、ご自身が神から遣わされたメシアとして、多くの苦しみを受け、指導者たちに排斥され、殺されることが必ず起こることに決定していると弟子たちに教え始められたのです。しかも、はっきりとお話しになったのです。

 

弟子たちからすれば、今まで主イエスは人々を愛され、助けられ、励まし続けられていたのです。誰からも主イエスは受入れられ、尊敬を受けていると思っていたのです。それなのに、指導者たちから排斥され殺されるということはないと思ったのでしょう。

 

弟子ペトロは、イエスをわきへと連れて行き、いさめ始めたのです。彼はイエスをメシアと信じていました。だからこそ、メシアは苦しむことはない、排斥されるはずがない、そんなことを言うのは弱気になっているからだと思ったのでした。すると、主イエスは振り向いてペトロを叱りつけました。「サタン、引き下がれ」。主イエスは、ペトロの言葉がサタンからの誘惑と感じられ、厳しく退けられたのです。あなたは、わたしに、人間の期待通りの王になることを求めている。しかし、主イエスは自ら進んで、人々を罪から救い出すために苦難の道に向かうと表明されたのです。

2018年2月25日 礼拝説教要旨

荒れ野の誘惑

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第1章12-13節

 

主題聖句:それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。

                      マルコによる福音書 第1章12節

 

教会の暦で「受難節」を迎えています。主イエスが荒れ野で試練に遭われたのが40日間であったことに合わせて、イースター(復活祝日)までの40日間を受難節と呼んで、このとき、主イエス・キリストの御苦しみを思い起こし、信仰を新たにするのです。

 

今日は、主イエスが荒れ野で送り出されて誘惑を受けた箇所です。「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した」とあります。その時まで、主イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、天の父なる神の愛を示す声がかけられ、救い主としての歩みが始まった時でした。「それから、霊がイエスを荒れ野に送り出した」のです。神の霊が、出かけていくように主イエスを送り出したのが荒れ野でした。「送り出した」とは、強いて追いやったという意味です。

 

私たちも、洗礼を受けて信仰の歩みを始めた後、その喜びの余韻に浸る間もなく、すぐに荒れ野に追いやられるような、信仰が試されるような経験をすることがあります。

 

でも覚えておきたいことは、その試練の中にも神の霊の導きがあるということです。主イエスが荒れ野に送り出されたのは、霊の導きによることであり、天使たちが荒れ野で主イエスに仕えていました。主イエスを信じて歩む私たちは荒れ野を歩まされるような苦難を味わうことがあったとしても、決して神から見捨てられていないことを覚えるべきなのです。

2018年2月18日 礼拝説教要旨

われ生くるにあらず

三好 晴夫 牧師

ガラテヤの信徒への手紙 2章19-20節

 

主題聖句:わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。     

ガラテヤの信徒への手紙第2章19,20節

 

本年2月で私たちの教会は宣教開始百年を迎えました。これまでには戦禍など様々な苦難がありましたが、憐れみ深い主のお導きによって導かれ、今の祝福があります。そのような多くの導きの中心は、主イエス・キリストご自身とそのみ言葉です。そして、そのみ言葉を取り次いで、私たちに伝え、そのみ言葉通りになるように祈り実践されたのが、歴代の牧師・宣教師たちでした。

 

残された資料を見ますと、歴代の先生方が愛と祈りを持って伝え、実践して来られた信仰が、今日の御言葉に込められた信仰です。

 

主イエス・キリストが十字架につけられたその時、「わたしたちの古い自分」、すなわち、生まれつきの罪深い自分も、一緒にその十字架につけられて、死んでいるということを認める信仰です。

 

パウロがまだキリスト教を迫害していた時、彼に復活の主イエスは現れて、イエスこそ真の救い主であると示されました。その出来事を通して、パウロはイエスを信じました。その時、自分の生まれつきの罪深い性質がキリストと共に十字架につけられて死んでいると分かり、もはや自分が生きているのではなく、復活されたキリストが自分の中に生きておられると分かったのです。復活の主イエスが、信じる私たちの中に生きておられると、歴代の先生方から、私たちに語り伝えられてきているのです。

2018年2月11日 礼拝説教要旨

嵐を静めるキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第4章35-41節

 

主題聖句:イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 

マルコによる福音書  第4章39節

    

本年2月で私たちの教会は宣教開始百年を迎えます。百年前に宣教師がここ松山に住む人々に主イエスの福音を伝え始めて、信仰の群れが出来、今日に至りました。その信仰の群れの姿は舟にたとえられます。舟が海の中を進む時、様々な困難に出会うことがあるように、教会の歩みにも、様々な困難がありました。その時々の困難の中、支える力となったものは何だったのでしょうか。

 

今日の箇所で、主イエスと弟子たちが、群衆のいた場所を離れて、舟に乗って向こう岸に向かって進んだことが記されています。彼らの舟がしばらく進んだ時、激しい突風が起こり、舟が波をかぶり、水浸しになったのです。その中で、彼らは慌てふためき、水をかき出しますがどうにも改善しません。そんな時、主イエスは艫(とも)の方で枕して眠っておられたのです。その姿を見た弟子たちは苛立ち、主イエスを起こして不満をぶちまけました。そのとき、主イエスはどうされたでしょうか。起き上がって、風邪を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われたのです。すると、風はやみ、すっかり凪になりました。

 

その姿を見た彼らは、風や波を恐れた以上に、もっと畏れました。主イエスが風や波をも従わせる権威をお持ちであることに畏れたのです。彼らと共におられた主イエスは、私たちの歩みの中にも共におられるのです。