2019年6月9日 礼拝説教要旨

 聖霊の降臨

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第2章1-12節   

主題聖句: すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。    

  使徒言行録 第2章4節

                           

本日は、教会の暦では聖霊降臨日です。ペンテコステと呼ばれます。祈り待ち望んでいた主イエスの弟子たちの上に、聖霊が降り、その聖霊に満たされた彼らが大胆に神のみ業を語り、主イエス・キリストの救いの御業を宣べ伝えたところ、そのメッセージを聞いた人々が悔い改めて主イエスを信じました。その信じる者の群れが誕生したことから、教会の誕生日とも言われます。

 

弟子たちに、聖霊がどのように働かれたかについて、今日の聖書箇所を見ますと、彼ら弟子たちが、主イエスから、聖霊を送るから待つようにという命令を受けて、エルサレムでひたすら待ち望む祈りをしていたところ、五旬祭というユダヤの祭の日に、聖霊が降ったのです。

 

彼らが祈っていたら、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響き渡りました。また、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まったのです。このような不思議なことが起こったあと、一同が聖霊に満たされ、聖霊が語らせてくださるままに他の国々の言葉で話し出したのです。神の霊が彼らに働きかけ、その聖霊に促されるままに押し出されるように、彼らが大胆に語り出したのです。それは神の聖霊がなさった驚くべき御業です。

 

その姿を見た人々は、弟子たちが、自分たちに分かる言葉で神のみ業を語るのを見て驚きました。聖霊によって宣教の働きが始まったのです

2019年6月2日 礼拝説教要旨

 聖霊を受ける備え

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第1章12-26節

   

 主題聖句:彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 使徒言行録 第1章14節

                           

復活された主イエスは、ご自分が生きていることを数多くの証拠を持って40日にわたって弟子たちに示されました。その時、主イエスは父の約束(聖霊)を待つように命じられ、聖霊が降ると、力を受け、わたしの証人となると約束されました。

 

そう語られた後、弟子たちが見ているうちに主イエスは天に上げられました。すなわち、天におられる父なる神のもとに行かれたのです。主イエスが上って行く天を彼らは見つめていますと、天の使いが現れ、天に上げられた主イエスは、同じ有様で再びおいでになると語りました。

 

それで、彼らはエルサレムに戻り、集まって主イエスの約束された聖霊を待ったのです。その時、彼らがしたことの一つが、祈ることでした。そこに集まったのは、11人の弟子たち、一緒に歩んできた婦人たち、主イエスの母マリア、イエスの兄弟たちでした。皆違う背景の人たちでしたが、心を合わせて祈ったというのです。そうできたのは、彼らが主イエスと出会い、主イエスからそれぞれ励ましを受けて主イエスを信じていたからです。そして、彼らも、主イエスから聖霊を待つように命じられていて、聖霊が降る時、力を受け、イエスの証人となるという約束を信じて待とうとしていたからです。それで彼らはひたすら熱心に祈り、聖霊を待ち続けたのです。聖霊が降る時、力を受け、イエスの証人となるとの約束は、今も有効な約束です。私たちも聖霊を待ち望みましょう。

2019年5月26日 礼拝説教要旨

 託された大切な使命

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第28章16-20節

   

 主題聖句: だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。                 マタイによる福音書 第28章19節

                            

昨年、私たちの教会は主の祝福の内に、創立百周年を迎えることができたことを感謝して、お祝いの時を持ちました。そして百一年目を迎えた今年、どう行動しましょうか。やはり、これまで私たちの教会が大切にしてきたことを、心新たに継続すべきだと示されています。それは、歴代の先生方と信仰の先輩方が大事にしてきたことであるとところの、毎主日の礼拝、御言葉を学び祈ること、主イエス・キリストを伝えることを、これからも継続して行うべきではないでしょうか

 

そもそも歴代の先生方がどうしてそのように励まれたのか、その根拠を示す御言葉が、上記の言葉です。復活された主イエスが天の父のもとに上られる直前に、地上に残していく弟子たちに託された命令です。ひと言でいうならば、出かけて行って、すべての人に主イエス・キリストを知らせ、彼らがキリストを信じるように導きなさいということです。

 

この命令を受けた人たちは、すでに主イエス・キリストの弟子とされた人たちでした。主イエスが自分たちを選び、救ってくださったことを知ってこのお方を信頼して生きているものです。私たちもそのような者です。それを自覚するならば、主イエスから自分が受けた救いと愛を、他の人にも知ってほしいと思うのではないでしょうか。他の人に主イエスを知らせていくことは簡単ではなく、神の力が必要です。そうなるように祈り願って行きましょう。導いて頂きましょう。

2019年5月19日 礼拝説教要旨

 主の復活の証人

 

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第24章44-49節

   

主題聖句:エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。                 ルカによる福音書 第24章47,48節

                 

主イエス・キリストは、弟子たちが、そして私たちが、主イエスの復活されたことの証人となることを願って、働きかけておられます。

 

「証人」とは、見て、聞いた事実を証言する人のことです。弟子たちも、見て知った事実がありました。その事実とは、主イエスが十字架にかかって死なれたけれども、その三日後、死者の中から復活されたという事実です。その事実を彼らは目撃したのですから、まさに主イエスの復活の証人となるべき人たちです。

 

でも、最初からふさわしい証人ではありませんでした。彼ら弟子たちは、主イエスから選ばれて弟子とされた、いつも主イエスのそばにいて、主イエスから教えられ励まされて育っていたはずでした。が、主イエスが捕らえられた時、逃げ出し、主の十字架の死の大きさに、彼らは失望してしまっていたのです。そんな彼らに、復活された主イエスは現れて、ご自分の復活された手足を見せて、復活を明らかにしてくださいました。さらに、聖書に記されている、メシアが苦難に遭うこと、その後復活するという預言について、主イエス御自身が彼らに分かるように説き明かされて、彼らの心を開いてくださったのです。

 

この主イエスの救いの御業によって、悔い改める者に罪の赦しが与えられるという福音が明らかにされたのです。この福音が宣べ伝えられるために、復活の喜び、救いの喜びを知った私たちも証人とされるのです。

2019年5月12日 礼拝説教要旨

 からだの復活   

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第24章36-43節

 

     わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見

なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」  ルカによる福音書 第24章39節

                 

主イエスが復活され、生きておられる、と聞かされても、弟子たちには信じられませんでした。弟子たちの内の、何人かが、自分は復活された主イエスにお会いしたと熱心にその様子を語るのですが、他の弟子たちは信じられなかったのです。

彼らが家の中に集まってそんなことを話し合っていたその時のことです。彼らの真ん中に主イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。これは、シャロームという挨拶の言葉であり、それ以上に彼らに主イエスの平安をお与えになったのです。

しかし、彼らは亡霊を見ているのだと思い、恐れおののくばかりでした。その彼らに対して、主イエスは、「なぜ、うろたえるのか。わたしの手と足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と言って、ご自分の手と足とをお見せになられました。主イエスの両手と両足には、十字架刑で傷ついた釘の傷跡があり、血が生々しく流れていたことでしょう。それを見た弟子たちは、喜びに溢れます。喜びのあまりまだ信じられずに不思議に思っていると、主イエスは彼らの目の前で、差し出された焼いた魚を食べられました。そのようにして、主イエスは亡霊ではない、ご自身が肉も骨もあるからだをもって復活され、生きておられることを信じさせようとしてくださったのです。

2019年5月12日 礼拝説教要旨

 からだの復活    

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第24章36-43節

 主題聖句:わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」  ルカによる福音書 第24章39節

                 

主イエスが復活され、生きておられる、と聞かされても、弟子たちには信じられませんでした。弟子たちの内の、何人かが、自分は復活された主イエスにお会いしたと熱心にその様子を語るのですが、他の弟子たちは信じられなかったのです。

 

彼らが家の中に集まってそんなことを話し合っていたその時のことです。彼らの真ん中に主イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。これは、シャロームという挨拶の言葉であり、それ以上に彼らに主イエスの平安をお与えになったのです。

 

しかし、彼らは亡霊を見ているのだと思い、恐れおののくばかりでした。その彼らに対して、主イエスは、「なぜ、うろたえるのか。わたしの手と足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と言って、ご自分の手と足とをお見せになられました。主イエスの両手と両足には、十字架刑で傷ついた釘の傷跡があり、血が生々しく流れていたことでしょう。それを見た弟子たちは、喜びに溢れます。喜びのあまりまだ信じられずに不思議に思っていると、主イエスは彼らの目の前で、差し出された焼いた魚を食べられました。そのようにして、主イエスは亡霊ではない、ご自身が肉も骨もあるからだをもって復活され、生きておられることを信じさせようとしてくださったのです。

2019年5月5日 礼拝説教要旨

 共に歩まれる主イエス

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第24章13-35節

 

 

主題聖句:そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

ルカによる福音書 第24章25節

 

 弟子たちにとって、主イエスが十字架で息を引き取られたことは、相当な辛い経験であったことでした。皆さんも自分が尊敬し頼りにししていた方が突然なくなるようなことがあったとしたらそれはどんなにか辛く悲しく気力を失うようなことであるのではないでしょうか。

 

そういう悲しみがある時は、目の前に明るい希望が示されたとしても、なかなか受け入れるのが難しいのではないかと思います。

 

二人の弟子たちがエルサレムからエマオに向かっている時、見知らぬ旅人が近づき一緒に歩き始めました。その人がイエス様でしたが、彼らの目が遮られていて分からなかったのでした。

 

その旅人から、何を話しているのか尋ねられ、彼らはイエスの十字架の死、その三日目の朝、墓にはイエスの遺体が見当たらなかったこと、天使から聞いた「イエスは生きておられる」という御告げを話しましたが、でもそれがイエスの復活を信じることにならなかったのです。

 

それを聞かれた旅人(主イエス)は上記の言葉を語ります。彼らは正しく理解せず、心鈍くなっていると。預言者たちが伝えていたように、メシアは苦しみを経験した後、栄光に入ることになっていたのだと、主イエスは聖書全体からご自身について解き明かされ、導かれるのです。

2019年4月21日 礼拝説教要旨

 あの方は復活なさったのだ

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第24章1-12節

 

 

  主題聖句:あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 

         ルカによる福音書 第24章6節

        

復活の信仰というものが、初めから、弟子たちの中にあったわけではありません。むしろ、彼ら弟子たちは主イエスが捕えられた時、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。主イエスの十字架の死の事実に気力を失っていました。婦人たちは、主イエスの十字架を遠くから見つめ、葬られたお墓もじっと見ていました。でも婦人の弟子たちは、今一度主イエスのお体に香油を塗って葬り直したい思いを持って、週の初めの日(日曜日)の早朝、主イエスのお墓に向かいました。

 

その墓で見たものは、取りのけてあったその墓の中が空っぽであったという事実です。途方に暮れてしまった彼女たちに、希望の光が差し込みました。輝く衣を着た二人の人がそばに現れて「なぜ生きておられる方を死人の中に捜すのか」と問いかけました。彼女たちがイエスのお体を捜すその思いを見抜いた言葉でした。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」「ここ」死者の世界にはあなたの探すイエスはおられません。復活なさって、生きておられるのですと告げたのです。更に続けます。主イエスが以前話されていた受難の予告を思い出しなさいというのです。このように言われて彼女たちは主イエスの話を思い出し、少しずつもしかしたら主イエスが復活されたのかもしれないと受け止め始めていきました。このようにして復活が明らかになったのです。

2019年4月14日 礼拝説教要旨

十字架の救い

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第23章

 

主題聖句: するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 

         ルカによる福音書 第23章26-43節

        

この言葉は、主イエスが十字架に付いておられる時、一緒に十字架に付けられた犯罪人の一人に語られた救いの言葉です。

 

このとき、主イエスの十字架の両隣には、二人の犯罪人が十字架に付けられていました。一方の犯罪人はイエスをののしり、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救え」とわめき叫んでいましたが、もう一方の犯罪人は、イエスが自分を救おうとされず、自分を殺そうとする人たちのためにその罪をお赦しくださいと祈られる姿を見て、深く心動かされたようです。自分はこれまで多くの罪を犯したのだからこのような刑罰を受けても当然。しかし、このお方は何も悪いことをしていないと、彼はののしる犯罪人をたしなめました。その上で、彼は主イエスにお願いを始めました。「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」とお願いしたのです。これは心からへりくだって救いを求める祈りです。

 

すると、すぐに主イエスから、思いがけない言葉が返ってきました。それが上記の言葉です。「楽園」。パラダイス。神がおられ、信じる者もいるところ。そこにあなたは今日わたしとともにいますと約束されたのです。彼はこれまで自分勝手に生きていた者でしたが、今主イエスに救いを求めたとき、主は共にいてくださる。私たちも救いを求めよう。

2019年4月7日 礼拝説教要旨

 ぶどう園の主人と農夫

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第20章9-19節

 

 主題聖句:イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 

          ルカによる福音書 第20章1節

        

主イエスがエルサレムに入られ、十字架に付けられる三日前、神殿の境内で民衆に教えておられました。この時、たとえを話されたのですが、このたとえ話は、これまでのものとは違い、お話の登場人物や道具立ての一つ一つが、誰かをなぞらえている、何かをたとえているという、寓意的なたとえ話でした。ですから、聞いているユダヤ教の指導者たちはこの話は自分たちに当て付けて話していると気づいたのです(19節)。

 

このたとえ話は、ある人がぶどう園を造り、これを農夫たちに貸して長い旅に出たことから始まります。この意味は、「ぶどう園の主人」であるところの神は、「ぶどう園」であるところの神の造られた園、イスラエルを、「農夫」であるところのイスラエルの指導者たちに託して任されたということです。そして収穫の時になったので、主人である神は僕であるところの預言者たちを遣わして、イスラエルの人たちに神に立ち返るように伝えたのですが、農夫たちであるところの指導者たちは預言者たちを何度も袋叩きにして追い返しました。けれども、ぶどう園の主人である神は農夫である指導者たちの反発を受けてもあきらめないで「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」となおも彼らに期待して息子であるところの神の御子イエス・キリストを送ったのです。それは立ち返ることを信じる神の愛です。