2020年3月15日 礼拝説教要旨

  キリストにつながる

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第6章60-71節

主題聖句: シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行

きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。

               ヨハネによる福音書 第6章68節

 

主イエスは恵みに満ちた教えを伝えられ、多くの御業をなさいましたので、多くの人たちは主イエスを信頼しその教えを喜んで聞きました。けれども、主イエスにつまずく人々もありました。今日の聖書箇所には、主イエスは、ご自身が天から降って来た生きたパンであり、このパンを食べるならば永遠に生きる、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、その人を終わりの日に復活させると教えられたとあります。その教えを聞いた弟子たちの多くが、主イエスの教えにつまずいたのです。このため離れ去り、もうイエスと共に歩まなくなったのです。

 

それで、主イエスは「十二人」に「あなたがたも(わたしから)離れて行きたいか」と尋ねられました。十二人は、主イエスから選ばれて弟子となっていつもそば近くで教えを聞いていた直弟子です。主イエスを信じていた彼らです。その彼らに、主イエスは、他の人たちは去ったけれども、あなたがたは離れることはないよねと尋ねられたのです。

 

問われた十二弟子を代表してペトロが、上記の言葉を持って答えました。イエスを主と呼び、「わたしたちはあなたを離れてだれのところへ行きましょうか」と言いました。私たちはあなたを離れる思いはありません。あなたが永遠の命の言葉を持っておられるからです。あなたから命を頂いて来たことを感謝し信仰を表明したのです。私たちも同じです

2020年3月8日 礼拝説教要旨

 人の子を信じるか

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第9章13-41節

 

 主題聖句:イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼

に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

               ヨハネによる福音書 第9章35節

 

受難節第二主日では、主イエスが通りすがりに、一人の生まれつき目の見えない人を見かけ、その人の目が見えるようになさったこと。そのことから、この人が色々な経験の中で、イエスが真の救い主と信じるようになったところを学びたいと思います。

 

主イエスが土をこねてこの盲人の目を開けられたのが、安息日のことであったため、ユダヤの戒めでは安息日には何の仕事もしていけないのに、このイエスが、安息日にそんなことをしたということから、ユダヤ人指導者たちはイエスを罪人だと決めつけ、この人の目が見えるようになったことも信じなかったのです。そこで、彼らはさらに尋問を続けました。その中で盲人であったこの人は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見える事です」と告白し、「あの方が神のもとから来られたのでなければ何もおできにならなかったはずです」と、自分の上に御業をなさった方への感謝と信仰を言い表しました。

 

このためユダヤ人たちは彼を外に追い出したのです。それを知った主イエスは彼に出会い、「あなたは人の子を信じるか」と問われました。「人の子」とは、人間の罪が赦されるために十字架に上げられる。信じるものに命を与えることの出来る方です。この方が人の子イエス・キリストです。その方が、今も、わたしを信じるかと問いかけられます。

 

2020年3月1日 礼拝説教要旨

 荒野の試み

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第4章1-11節

 主題聖句: イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書

いてある」と言われた。   

マタイによる福音書 第4章7節

 

教会の暦で、主イエス・キリストの味わわれた御苦難を覚える「受難節(レント)」の季節に入りました。今日は第1主日で、主イエスが荒野で試みに遭われた聖書箇所を読みます。主イエスが神の霊に導かれて行った場所が、荒野でした。そこで悪魔の試みを受けたのです。悪魔、それは神に敵対する霊的存在です。その悪魔は主イエスを、そして私たちを神から引き離し神に信頼しないように仕向けようとしたのです。主イエスの味わわれた戦いは、私たちの信仰の戦いでもあります。

 

悪魔は第二の試みとして、主イエスを神殿の屋根の端に連れて行き、「ここから飛び降りたらどうだ」と誘惑したのです。あなたが神の子なら神はあなたを守ってくれると。聖書の言葉を引用して誘惑したのです。

 

この誘惑の鋭さは、主イエスが神殿の端から飛び降りるという危険を冒して、神があなたを愛し守ってくれるかどうかを試してみろという誘惑です。このようなしるしを見せたら、人々があっと驚くから、そのしるしを見せたらいいではないかというのです。私たち自身、そんなしるしを見せてくれたら、主イエスを信じてもいいのではないかと期待する思いがあります。しかし、主イエスは、神を試みてはならないと答えました。主イエスは大げさに自分の力を見せることをされません。あくまで神を信頼し続けられたのです。私たちも大げさなしるしを主に求めて主を試みないで、主を信頼するべきなのです。

 

2020年2月23日 礼拝説教要旨

  いのちを与える方

三好晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第6章1-15節

 

 

 

 主題聖句: さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座ってい

る人々に分け与えられた。    

ヨハネによる福音書 第6章11節

 

主イエスが山に登られ、弟子たちと座っていたところに、大勢の群衆がやってきました。群衆の近づく姿をご覧になった主イエスは、弟子たちに聞きました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。主イエスは彼ら群衆を深く憐れみ、彼らにパンを食べさせたいと思われたのです。

 

でも、弟子たちは、自分たちで食べさせるには、どのくらいのお金がかかるか計算し、それに必要なパンを用意するのは無理だと思ってしまいました。そんなとき、弟子の一人が、主イエスのもとに一人の少年を連れてきました。この少年が大麦パン5つと魚二匹を持っていますと伝えました。でも、この弟子には、大勢の人たちに食べさせるには、このわずかなものでは何の役にも立たないと思いました。

 

しかし、主イエスは、このわずかなものであっても、今御自身がしようとしておられることを行う準備が整ったと判断されたのでしょう。弟子たちに命じて人々を座らせました。そして、主イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、座っている人々に分け与えられました。人々に欲しいだけ与えられたところ、人々が満腹したのです。

 

主イエスがパンを取り、父なる神に感謝の祈りをささげられ、そのパンを人々に分け与えられたということは、主イエス・キリストが一人一人にいのちを与えるお方であることを教えています。

2020年2月16日 礼拝説教要旨

 良くなりたいか

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第5章1-18節

 

 

主題聖句: イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気

であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。

                  ヨハネによる福音書 第5章6節

 

エルサレムに「ベトザタ」と呼ばれる池があり、その池の水が動く時、真っ先に水に入った人は、どんな病気にかかっていても癒されると信じられていました。それで、病気を抱えた人たちが皆、その池の回廊に横たわって、水が動くのを今かと待っていたのでした。そこに38年も病気で苦しんでいる人もいました。そこに主イエスは来られて、その人をご覧になり、その人が長い間病気であるのを知って、声をかけられたのです。「良くなりたいか」。この言い方は、分かり切ったことを聞く問いかけのように思えます。でも、意味深いもののように思えます。直訳をすると、「あなたは病気が治るようになることを願っていますか」となります。彼は自分が長い間病気で苦しみ、この池に来ていてもなかなか治るチャンスが来ないまま、ずっとここにいました。この問いかけは、彼の心にあった求めをもう一度呼び起こすことになりました。

 

しかし、彼は、「主よ、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」と言い訳を言いました。でも、自分の本当の求めを呼び覚まされたこの病人に、主イエスは、あなたが良くなりたいと願うのなら、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と励まされたのです。すると、この人は、主イエスのみ言葉に込められた御力に押し出され、主イエスの言葉に従ったとき、彼はしっかりと歩き出すことができたのです。

2020年2月9日 礼拝説教要旨

 真理は自由にする

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第8章21-36節

 

 

主題聖句: あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

         ヨハネによる福音書 第8章32節

 

今日、私たちは憲法によって基本的人権など様々な自由が保障されていて、法律の範囲内で自分の思いのままに行動することが許されています。自由を保障する国で自由な生活できることはありがたいです。でも、内的にも自由はあるかというと、様々な束縛や窮屈さがあります。世間体に、うわさに、しきたりに、因習や慣習に結構縛られています。欲望や罪の奴隷になっていないでしょうか。

 

今日の御言葉に、この奴隷とか自由のことが取り上げられています。このことは、私たちが人間として生きていく上で大切な問題です。

 

主イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と言われました。主イエスの本当の弟子となるためには、主イエスの語られた言葉にとどまることが大切だというのです。主イエスの言葉にとどまることは、主イエスの言葉に聞き続け、主イエスの言葉に立って生きることです。主イエスと親しく交わり、主イエスが自分の内にあるように主の言葉を心にとどめることです。そのようにしていくならば、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」というのです。真理とは何でしょうか。本当のことです。それは主イエス・キリストのご人格と密接に関係のあるものです。主イエスこそ真理です。真理であるイエスは、私たちを罪から解放し、本当の自由に生きるようにしてくださるのです。

2020年2月2日 礼拝説教要旨

 まことの神殿

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第2章13-20節

 

 

主題聖句:イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」     

    ヨハネによる福音書 第2章19節

 

ユダヤ人の過越祭が近づき、主イエスが都エルサレムに上られた時のことです。祭りの時、エルサレム神殿に各地からユダヤ人が大勢集まり、境内では献げ物のための生き物等が売られたり、献金のための硬貨に両替をする商売人が商売をしたりして、礼拝者の便宜を図っていました。その状況をご覧になられた主イエスは、突然、縄で鞭を作って、ささげ物用の生き物たちを追い出し、両替のお金をまき散らし両替の台を倒したりしました。どうして主イエスはこんなことをされたのでしょうか。その心には、当時の礼拝のあり方に対して、人々の礼拝する態度に大きな問題があると感じられ、熱い思いでそのようになさったのです。

 

これを見たユダヤ人指導者たちは、どういう権限があって、こんなことをするのか、しるしを見せろと詰め寄りました。その問いに対して答えられたのが、上記の御言葉です。「この神殿を壊してみよ」。当時の神殿の内部に問題があり、そのための解決が必要と感じておられたのです。「三日で建て直す」とはどういうことか、その意味は誰も分からなかったのですが、主イエスが復活されたあと、弟子たちに分かったことです。それは、後に、主イエスが人々に捨てられ、十字架に付けられてしまいます。それは人間の罪を背負って十字架で贖いを成し遂げられることでした。そして三日目に死人の中から復活されて、主イエス・キリストの復活の体を通して、私たちを神に結び合わせて下さったのです。

 

2020年1月26日 礼拝説教要旨

 最初のしるし

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第2章1-11節

 

 主題聖句:ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。     

ヨハネによる福音書 第2章3節

 

ガリラヤのカナで婚礼があり、その婚礼に主イエスも招かれて出席していた時のことです。当時の婚宴において、ぶどう酒は不可欠な飲み物でした。ですから、途切れないように十分に用意しておいたはずです。それなのに、めでたい祝宴が盛り上がっている最中、突然ぶどう酒がなくなりかけるという非常事態が起きてしまいました。

 

このままなら、盛り上がっている祝宴に穴をあけてしまう。楽しい席が白けてしまうかもしれません。台所にいる人たちは、残り少なくなったぶどう酒をどう補充したらよいか、方法も見つけられず、不安の中にあったのです。私たちの人生にも、「ぶどう酒がなくなる」というような困ってしまうことが起こることがあります。

 

そういう時、イエスの母は非常事態に直面し苦しむ親戚の新婚の二人、その家族を思い、何とかできないか必死に考えたのです。その時に、ここにイエスがいると気づいたのです。そしてこの窮状をイエスに伝えたのです。けれども、イエスの答えは、何かよろよそしい印象を与えるものでした。イエスのお考えがあり、自分に託された使命の時がまだ来ていないと言うのでした。しかし、その上で、イエスは人間の一つ一つの欠乏、必要に心を留め、その苦しみ困難を助けてくださるのです。主イエスは、僕たちに指示を与え、僕たちの従順な行動を用いて、喜びがなくなりそうであったところを、喜びの場に変えてくださいました。

 

2020年1月19日 礼拝説教要旨

 来なさい。そうすれば分かる

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第1章35-51節

 

 

主題聖句: イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。

             ヨハネによる福音書 第1章39節

 

最初にイエス・キリストを救い主と信じる信仰を持った人、それは、洗礼者ヨハネの弟子たちですが、どのように信じるようになったのか。

 

洗礼者ヨハネが主イエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と証言したので、それを聞いたヨハネの弟子たちは深く心揺り動かされ、この方をもっと知りたいと、イエスのあとに従いました。その姿を見たイエスは振り返り、「何を求めているのか」と尋ねられました。こう問われた彼らは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。彼らは、今こんなところで立ち話でわかるものではないという思いがあったのでしょう。どこまでもイエスについていくことによって、得ることができると考えたのでしょう。それで先生の泊まっているところに自分も行きたいと求めて尋ねたのでしょう。

 

すると、イエスはこう言われました。「来なさい。そうすれば、分かる」と。この言葉は、御自分の泊まっている場所がどこか、来てみたら分かりますという意味だけのものではなく、まずイエスを信じて、イエスのおられるところにとどまりなさい、そうすればイエスがどんな方か分かります、という意味も込められています。神様が分かり、救い主が分かるのは、まず信じてみることです。信頼してみて分かるのです。

 

2020年1月12日 礼拝説教要旨

 ヨハネの証し

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第1章29-34節

 

 

主題聖句: その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

ヨハネによる福音書 第1章29節

 

洗礼者ヨハネは、主イエスが洗礼を受けられたとき、聖霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見たので、この方が、神の御子救い主と確信し、証ししました。

 

ヨハネは、この方に向かって「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と紹介したのです。「神の小羊」とはどんな意味か、その背景にある旧約聖書の言葉を二つ見たいと思います。

 

一つは、過越しの小羊であられるということです。出エジプト記12章を見ますと、旧約時代、イスラエルの民はエジプトの王によって奴隷として虐げられていました。そんな彼らを神は救い出すために過越しの御業をされたのです。ある夜、神の使いが家々を訪れ、その家の入口に傷のない小羊の血が塗ってあるならそのしるしを見てその家の中の者を過ぎ越す。それがなければ、神から裁かれるのです。信じたイスラエルの民は過越しの小羊によって助けられ無事エジプトを脱出できました。

 

もう一つは、イザヤ書53章の苦難のしもべの預言です。一人の僕が人々の罪や過ちのために本来受けるべき神の裁きを代わって受けるというのです。その結果、人々は裁きを免れ、平安がもたらされる。ほふり場に引かれていく小羊のようにその人は口を開かない。そのような人物は、苦難の中何も言わないで十字架へと引かれて行かれたイエス・キリストの姿と重なります。ヨハネは、イエスこそ神の小羊と証ししました。