2021年12月5日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.49 神の言葉を聞きなさい

ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。
                                エレミヤ書 第36章3節

 

待降節第2主日の主題は、神の言葉を聞くことです。
主イエスが来られる前、私たち人間は預言者を通して神の言葉を聞いていました。しかし、人々は預言者の伝える神の教えや警告を素直な心で聞くことができませんでした。預言者を通して、人々に対して、あなたは危ない悪い道に向かっている、だから、神に立ち返れと呼びかけても聞こうとしませんでした。そればかりか、預言者をうるさがり、遠ざけて、排除しました。今日の箇所に登場するエレミヤに対しても、人々は、その語る神の言葉を聞かないで、いじめてしまいました。
エレミヤは、神は人間と良い関係となるように私たちを愛し、恵もうとしておられることを伝えます。でも、彼らは神にではなく偶像に頼り欲望のままに生きていたので、それで神はエレミヤを通して、神の裁きを告げ、神に立ち返るよう呼びかけます。でも、人々はエレミヤをうるさがり、閉じ込めて語れないようにしました。そのために、エレミヤはバルクという弟子に神の言葉を巻物に書かせて、それを神殿で読ませました。しかし、人々は従わず国は滅びてしまいました。それでも神は人間を思い、御子イエスを人となった神の言葉として遣わされたのです。

2021年11月28日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.48 目を覚ましていなさい

たしに聞け 正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。
 イザヤ書 第51章7節

クリスマスの出来事は、何の前触れもなく、突然起こったことではないのです。旧約の昔に、預言者たちが、人々に救い主がお出でになるという神の約束の言葉を預言し、人々に来るべき救い主の来臨の希望を伝えていたのです。その預言を聞いた人々は、目の前の苦しみの中で、その約束を希望としてその時を待ち続けたのです。そのように待ち続ける彼らのもとに救い主がお生まれになられたのです。
旧約の人々がどのような思いで救い主を待望したのかを覚えたいのです。今日開かれたイザヤ書51章は、南ユダ王国も大国バビロンによって滅ぼされて、多くの人々が異国の地に連れていかれ不安と絶望の中にあった時に、預言者に示された、大いなる慰めの言葉です。
人にではなく「わたしに聞け」と神は語られ、神の語る教えに心をとめるように勧めます。神はその語られる言葉に基づいて彼らを救おうとされたのです。それゆえ、預言者イザヤは、神に向かって、神が奮い立って力をまとって神の力強い御腕で、昔、自分たちを救ってくださったように、今、自分たちを救ってくださいと叫ぶように求めています。そうしてくださると信じて待つのです。
私たちも神に心を向け、神の救いを待ち望む思いでクリスマスを待とう。

2021年11月21日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.47 裁かないように

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

      マタイによる福音書 第7章1節

 

他の人の失敗や間違いを知って、それはよくないことだと批判すること、つまり、人を裁くことは、私たちが、結構毎日心の中でしているのではないでしょうか。相手にその間違いを言ってあげて、正してあげることは大切だと思っています。ですが、主イエスは、「人を裁くな」と教えられています。それはなぜでしょうか。

「あなたがたも裁かれないようにするためである。」と言われます。その意味は、人は完全ではありません。そんな人間が相手の間違いに気づいて裁くとき、神に裁かれるからです。正しく裁くことのできる神が見ておられ、裁かれるからです。神は、私たちが人を裁くその裁きに応じて、私たちをも裁かれるというのです。

私たちが人を裁くとき、どんな問題があるのでしょうか、主イエスはたとえを持って教えられます。私たちは、人の目の中にある小さな「おが屑」、つまり小さな欠点や間違いにはよく気が付き、そのことを注意してあげようとします。でも、自分の目の中にある「丸太」、つまり自分の大きな欠点や間違いには気づかないのです。自分の大きな欠点や間違い、それは、相手の状況を考えずに自分の偏った価値観や正義を基準で裁いては正しく相手が見えません。まず神から教えられるべきです。

2021年11月14日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.46 子どもを招く主イエス

「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

        マルコによる福音書 第10章14節

 

本日の礼拝の中で、子ども祝福式を行うにあたり、子どもたちを祝福することの意味を覚えたいと思います。

子どもたちは「主からいただく嗣業」(詩127:3)であり、その存在そのものが尊いものです。しかし、成長していく過程で様々な困難もありますから、親は子どもたちを心配しながら見守っています。

当時、霊的に力のある先生に、手を置いて祝福してもらおうと親たちは、主イエスのところに、子どもを連れて来たのです。すると、弟子たちは近づく親子たちを叱り、退けようとしました。弟子たちは、主イエスは大人にお話をしていることに忙しく、子どもは邪魔だと思ったのです。大人としての気遣いでした。しかし、主イエスはそのように親子を追い払う弟子たちの行動を叱り「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言われました。子どもたちがご自分の方に来るままにさせなさいと歓迎されたのです。それは、子どもたちの中に神の国を受け入れるにふさわしい態度があると見ておられたのです。無心で恵みを受けようとする子どもたちに祝福が与えられるのです。

2021年11月7日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.45 思い悩むな

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

        マタイによる福音書 第6章25節

 

私たちは日々生活をしていく中で、様々な心配事が出てきます。あの事、この事と気になっています。ますます焦ってしまったり、心落ち着かずに動揺してしまい、思うようにいかなくなってしまい、いろんな不安がますますあふれて来ます。

この「思い悩む」とは、いくつものことを同時に見てしまって一つに向かない心のことです。ルカ10:38節以下で、主イエスをもてなそうとしたマルタの姿に見られます。その姿に主イエスは「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と注意されました。私たちも、このように多くのことに思い悩み、心を乱しやすいのではないでしょうか。そのように思い悩む私たちに対して、主イエスは「命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と言われました。

命は、私たちに大切なものとして神がお与えくださったものです。神はこの命を与えて下さっているのですから、命に必要な食べ物をも与えて下さるはずです。体も、私たちに大切なものとして神が与えて下さっているのだから体に必要な衣服をも与えて下さると神を信じましょう。

2021年10月31日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.44 天に富を積みなさい

富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

        マタイによる福音書 第6章20節

 

 神を信じて歩む私たちですが、地上で生活するわけですから、ある程度のお金が必要です。お金なしには生活できません。そしてある程度の富を蓄えて、安心を得ようと生きています。

主イエスは今日の箇所で「地上に富を積んではならない」と教えています。地上に富を蓄えると虫やさびによって朽ちます。その富が盗まれてしまうこともあるからです。地上に蓄える富は一時的には安心を与えてくれますが、自分を死から守ってはくれません。

「天に富を蓄えなさい」と教えています。「天」それは神様です。神様に心を向けることです。私たちは国籍を天に持っている者ですから、神に心を向け、神に喜ばれるように生きることです。神から多くのものを与えられています。与えられたものを、自分のものとしないで、神様のものとして用いていくことです。神様に私たちが心を向けることができるように、もうすでに父なる神様はイエス・キリストという宝を私たちに用意していてくださいます。神様の御前に私たちの罪の赦しがあり、永遠の命の祝福があります。私たちはこの天の宝に心を向けて、その恵みを味わいながら神に喜ばれることをさせていただくのです。

2021年10月24日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.43 暗い顔をしないように

 

断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。        マタイによる福音書 第6章16節

 

 この箇所で、主イエスは断食を勧めているのでも、否定しておられるのでもありません。当時の人々が、信仰のあり方の一つとして守っていた断食に注目し、この断食のあり方を通して、今日の私たちの信仰生活の基本的なあり方を明確に指摘しておられるのです。

断食は、少しの期間食事を断つことです。旧約時代以降、イスラエルにおいて、神の前に罪を悲しみ悔い改める時に、断食をして、心も体も集中して深く罪を自覚し、神に心を向けて祈りと悔い改めをしました。深く悲しむために自ら食を断つことをしたのです。

主イエスが教えられたことは、信仰生活は、人にではなく神に見てもらうことを心がけよということです。神に心も体も向けて断食するときに、誰かに見てもらい、自分がちゃんと信仰生活をしているのを見てもらおうとしてしまうことがあったのです。それでは、神に向けてではなく、人に認めてもらおうとしていることだと指摘されています。むしろあなたの断食が人に気づかれないで神にだけ見ていただくようにしなさい。暗い顔をせず、喜んで過ごしなさい。主イエスにあって神の前に罪を悔い改めることは、主イエスから罪赦されて喜びに至ることだからです。主イエスが共におられます。このお方と共に喜んで歩むのです。

2021年10月17日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.42 試みに遭わせず

 

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

 マタイによる福音書 第6章13節

 

 私たちの罪を赦してくださいと求めた者が、「試みに遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るのは自然なことです。信仰生活は、神に喜ばれるように生きる者になることだからです。そのために、悪いことをしないような生活をしなければなりません。しかし、私たち人間は弱く、試みに遭えば、ひとたまりもなくやられてしまいます。だから、聖い生活を求めて悪から救い出してくださいと祈るのです。

ところで、「試み」とは何でしょうか。「試み」という原語には二つの意味があります。一つは、「試みる」「試練」で、信仰が育つように試す、テストするとの意味です。最初は苦しみや辛い経験があったとしても、その試練を耐え忍んでいくとき、信仰が育っていくのです。試練は必要なものとしなければなりません。  もう一つの意味は「誘惑」です。悪へと誘っていく力です。私たちは誘惑されやすく、欲に引かれて、誘われて、罪を犯します。悪の背後には、悪い者の存在があり、神から引き離そうと誘惑し、人間に罪を犯させようとします。このような誘惑から、私たちは守られるのでしょうか。悪魔の誘惑に勝利され、私たちを救い出された主イエスが私たちの試練や誘惑から救い出してくださいます。だからこそ、私たちも、この祈りをすべきなのです。 

 

2021年10月10日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.41 我らの罪をお赦しください

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

 マタイによる福音書 第6章12節

 

 私たち人間は神の前に罪ある者ですから、神に罪を赦していただかなければ、神の前に罪人のまま裁かれてしまうかもしれません。自分の力では解決できなかったのですが、神はその憐みによって私たちの罪を赦してくださったのです。それゆえ、まず自分の罪の赦しを求める祈りをささげ、自分の罪が赦していただいたという恵みによって自分に対して罪のある人を、自分も赦しますと祈っていくのです。

まず、自分の罪の赦しを求める祈りですが、その罪が「負い目」と言われています。私たちには神に対して莫大な借金のような罪があるのですが、返すことができないでいます。そのような罪の自覚が自分にはあまりありません。ある時、自分の負い目に気づかされますが、自分では償うことができません。しかし、神は憐れに思い、私たちの罪をすべて赦してくださいました。イエスの十字架のゆえに赦してくださいました。それゆえ自分の罪の赦しをお願いするのです。このように、神から自分を赦して頂いたのですから、その恵みを覚えて、自分に罪のある者が赦されるように祈り、赦していくべきなのです。神から赦されたのだからです。

 

2021年10月3日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.40 必要な糧をお与えください

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」

 マタイによる福音書 第6章11節

 

 これは、私たちの食べる物を今日与えてくださいと、父なる神に素直に願い求めている祈りの言葉です。でもどうでしょうか、私たちにはピンと来ない祈りに思っていませんか。なぜかというと、現在の私たちは、食べる物に困ることがあまりないからです。いつも身近に食べ物があります。神様にお願いしなくても、人に頼めばすぐに手に入ると思っています。ですから、この祈りは何か自分とは関係のない祈りのように思えるのかもしれません。

それでは、この祈りは、今の私たちには全く関係のない祈りなのでしょうか。今の私たちが食べ物に困っていなくても、この祈りをすべきなのだとしたら、この祈りにはどんな意味があるのでしょうか。

幸いなことに私たち神を信じる者は、食前の感謝の祈りをしています。祈って食べるようにしています。どうして感謝の祈りをするのかというと、食べ物の材料である、野菜や肉などは農家の人たちが自然の力によって育てて収穫します。人間の力で作られますが、自然の力も多くあり、自然を造り支配されるのは神であるからです。神がこれらを備えて、私たちを養ってくださると感謝して祈っているのです。