2023年11月26日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.48 安息日の主なるキリスト

 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば…                          マタイによる福音書 第12章7節

 

イエス様の弟子たちは、ある安息日に麦畑に入った時、空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めました。この姿を見たファリサイ派の人々がイエス様に「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」ととがめました。安息日を守ることは十戒に記された律法です。ところが、律法学者たちはその律法にさらに細かな細則を作り、人々の生活を規定したのです。弟子たちのした、麦の穂を摘むことは刈り入れ、手で揉むことは脱穀だと、安息日に禁止されている労働をしているではないかと詰め寄ったのです。

この非難に対してイエス様は安息日を守る真の意味を明らかになさいました。第一は、ダビデの事件です。サウル王に追われていたとき、ダビデと供の者たちが食べ物に困った時、祭司からその日下げられた聖所の供えのパンを分けてもらい、空腹を満たしたのです。そのパンは祭司しか食べてはならないものでした。しかし、それは罪だと裁かれませんでした。むしろ、ダビデと一行が生きるために必要、やむを得なかったと認められたのでした。第二に、イエス様は『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という旧約聖書ホセア書の言葉を引用されました。神が本当に求めておられるのはいけにえではなく、憐みなのです。神の憐みの心によって人々が守られ平安に生かされることです

2023年11月19日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.47 真のいこいと安らぎ

 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 

                               マタイによる福音書 第11章29節

 

イエス様はすべての人々をご自身のもとに来るように招かれます。「疲れた者、重荷を負う者」にわたしのもとに来なさいと招きの声をかけられました。「だれでも」という言葉で始まっていて、どの人にも分け隔てなく提供されています。「疲れた者」とは苦しみ疲れている人のことです。「重荷を負っているもの」は誰かによって重荷を負わされている人たちです。

私たちは色んな重荷を負って疲れ果てています。色んな「重荷」の中でも、イエス様が注目しておられるのは、律法によって負わされる重荷です。イエス様の時代の宗教指導者が人々に押し付けていた、こまごまとしてわずらわしい厳格な律法のことで、人々はこの重荷に耐えられないほどに苦しんでいました。

イエス様は「(わたしが)休ませてあげます」と力強く言われました。イエス様の与える「休み」は解放する、まったき安息を与えるという意味です。イエス様が神の御子だからこそ与えてくださいます。

イエス様はご自分のことを「柔和で謙遜な者」と言われました。心優しく、へりくだったお方です。招いた人々に、イエス様自身がこの重荷をどのように負っているかその姿を見せ、一緒に負ってくださいます。

2023年11月12日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.46 嘆き悲しむ主イエス

それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。                                 マタイによる福音書 第11章20節

 

イエス様は、神様のみわざを見ても、神様の方に向き直らない私たちの姿をご覧になって深く嘆き悲しんでおられます。

今日の箇所で、イエス様は激しく厳しい言葉で、イエス様の数多くの奇跡を見たはずなのに、悔い改めようとしない者たちに、神様の裁きとして厳しい罰が与えられるのだと語っておられます。

20節以下に出てくる、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町はガリラヤ地方の町々です。これらの町々にイエス様は力強く福音を語られ、奇跡を行われました。病人をいやしたり、悪霊を追い出したり、死んでしまった人を生き返らせるという奇跡を行われました。しかし、その町の人々は、イエス様のみ言葉と御業をしっかり受け止めなかったのです。イエス様の奇跡に驚きはしました。イエス様の教えを聞くために集まって来ました。興味を持って集まり、聞いたり見たりして驚きました。しかし、彼らは悔い改めなかったのです。神様の方に向いて、自分の罪を認め、神様に赦しを乞う、ことにならなかったのです。

このように彼らの様子は、私たちの姿ではないでしょうか。私たちも神様によって生かされ、私たちの中にも神様の御業を行ってくださっているのに、神様の御業に気づかず、神様の言葉を聞かず、神様に向いていないものです。そんな私たちに、主はなおも愛を向けておられます。

2023年11月5日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.45 新しい時の始まり

 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。

マタイによる福音書 第11章12節

 

洗礼者ヨハネが語ったメッセージは何でしょうか。「悔い改めなさい。今までの生き方から方向転換してこれから来られる救い主によってもたらされる天の国に入れる備えをしなさい」と語りました。

イエス様のメッセージは、「悔い改めなさい。天の国は近づいた」です。ヨハネとイエス様のメッセージは一緒です。違いはヨハネの務めは、救い主を紹介することであり、イエス様の務めは、十字架による救いを成し遂げることです。

洗礼者ヨハネが活動をし始めてから、天の国は力ずくで襲われているとはどういう意味でしょうか。この事をルカによる福音書16:16では「それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」と表現されています。神の国がヨハネの宣教によって、イエス様によってこの世にやって来ているのです。イエス様の福音が力強く宣べ伝えられ、神の国は力強くこの世にやってきているのです。人々はヨハネの説教に出会い、メッセージを聞いて心動かされて、ヨハネのメッセージを信じ、神の国に入ったのです。

イエス様は十字架で命まで捨てて救いを与えようとされました。与えようとされる神の国を心から求めるようにイエス様は勧めておられます願う者は、それを

2023年10月29日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.44  救い主への疑い

  尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」           

                           マタイによる福音書 第11章3節

 

洗礼者ヨハネは領主ヘロデに捕らえられて、牢獄の中にいました。そこで深い疑問に苦しんでいました。自分が、イエスこそメシアであると声高らかに証ししたのに、弟子たちを通して伝えられる、イエスのなさったみわざを聞く度に、イエスがメシアであることが、ぐらついてきたのです。なぜかと言うと、イエスの実際になさっているみわざや言葉は、ヨハネの思い描き、実際に口に出して語って来た救い主のあり方と違っているからです。

ヨハネが語ったメシアは、自分のあとに来る方、厳しく神の裁きをなさる方だと伝えていたのです。罪を糾弾する厳しいキリストです。しかし、このイエスは決定的な裁きをお語りにならない。メシアの到来にふさわしい驚くべき出来事が起こっていない。このイエスは、自分がひたすら求めていたメシアであろうか、その疑問を、ヨハネの弟子たちを通して、イエス自身に問うたのです。

イエスの答えは、「行って、自分たちが見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き…貧しい人は福音を告げ知らされている。」このような驚くべき出来事がイエスにおいて実際に起こっていることに目を留めよと、イエスは言われます

2023年10月22日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.43  主にふさわしい者

  わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。           

マタイによる福音書 第10章37節

 

このみことばに接するとき、多くの人々は戸惑いを感じるでしょう。主イエスの語られた言葉としてはあまりにも突飛と思われるからです。

この主イエスのみ言葉の背後には、主イエスご自身の血みどろの体験があったのです。主イエスはユダヤ教的な家庭の中で生まれ育ち、神に仕えることと同様に両親に仕えられました。しかし、救い主としてみ父に従って歩み始めたとき、神に仕えることと親に仕えることが必ずしも一致しなくなりました。父なる神の御心に従って歩もうとされるとき、それはさらに著しくなりました。主イエスの母や兄弟も主イエスを理解できなくなっていき、主イエスは大変苦悩されたと思います。そのような肉親の情愛を経験された主イエスが「自分の家族の者が敵となる」と語られるのです。このみ言葉の一語一語に主イエスの苦悩を見ます。

信仰の道を進もうと決心しても、肉親の反対にあって決心が揺らぐ場合もあります。しかし、ここも主イエスが体験され、主イエスが通られた道です。肉親の情愛は、突き詰めれば自己中心的な愛です。それが応えられないと、激しい怒りと憎悪に変わります。このような情愛を乗り越えてキリストに従うことが求められています。家族の愛はありがたいですが、主イエスの救いはもっと大事ですから、従いましょう。

2023年10月15日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.42 見えないものに目を注ぐ
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。 見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。        

                          コリントの信徒への手紙 二 第4章18節

パウロは、自分は見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐと言います。「見えるもの」とは、目に見える現実です。それらは過ぎ去るものです。世に生きる私たちは、その目に見えるものばかり目を注ぎやすいものです。そのために目に見えることばかり気になって不安になり、悩み苦しみます。信仰者も、そのような目に見える現実の解決を求めて祈っています。
パウロは、見えないものに目を注ぐと言いました。信仰の目をもって見えないものを求めるということです。それはどういうことかというと、目に見えないもの、すなわち、神ご自身であり、霊的真理であり、永遠の命であり、天の御国です。それらを求めるというのです。永遠に存続するからです。
目に見えない神様がおられて、このお方が私たちを愛し守っていてくださるからです。神の独り子イエス・キリストを通して私たちを救い、新しく生かしてくださるからです。私たちの罪を赦し、永遠の命に生かしてくださるからです。
ですから、私たちは目に見える現実の中に、目に見えるものばかりに目を留めるのではなく、目を永遠の神に注いでいくのです。

2023年10月8日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.41  恐れるな

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。              

マタイによる福音書 第10章26節

 

イエス様は「恐れるな(恐れることはない)」と3回(26、28、31節)語られました。私たちは色んなことに不安や恐れを感じて過ごしています。人の目を恐れて生活しています。しかし、イエス様は本当に恐れなければならないものを恐れる時には、人を恐れることはないと教えておられます。

恐れる必要のない理由の一つは、「弟子は師にまさるものではない」ことです。師匠であるイエス様がベルゼブル(悪魔の親分)と呼ばれているからには、その弟子が社会からひどい評価を受けるのは当然だとイエス様は言われます。イエス様はこの世で犯罪人として十字架に付けられ、その十字架によって私たちを救ってくださいました。そのイエス様の苦しみは私たちのためであったことを覚えて感謝すべきです。

恐れる必要のない第二の理由は、「覆われているもので現わされないものはない」ことです。この言葉は、陰でこそこそ行っていることはいつか露わになる意味でした。イエス様が教えられた意味は、人々から反対されたり誤解されながらも誠実に行っているなら、やがて明らかになって、分かってもらえる時が来るというのです。イエス様がひそかに弟子たち(私たち)に教えられたことを、その福音の力を信じ伝えよう。

2023年10月1日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.40  賢く、そして素直に

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。              

マタイによる福音書 第10章16節

 

イエス・キリストが十二人の弟子たちを、伝道に遣わすにあたって様々な注意を語られたのが、マタイによる福音書10章です。今日の箇所では、いずれ教会が見舞われる迫害に対して信仰の備えをするようにと警告がなされています。教会がこの世に遣わされるときに、迫害という困難な状況が予想されるのだということが教えられています。

まず心に留めておきたいことは、「わたしはあなたがたを遣わす」と主イエスが力強く言っておられることです。弟子たちだけでなく、主イエスを信じる私たちも主イエスから、この世に遣わされた者です。主イエスの恵み、主イエスのみ言葉を頂いて、この世に共にある家族、友人たちのところにあって、主イエスの愛と平和を伝える役目を持っています。そのために、礼拝に集い、み言葉の教えを受けて強められたいと願っています。それぞれに与えられている生活の場に、送り出してくださっている主を忘れないでいたいものです。

私たちの伝道は、狼の群れの中に弱い羊が入っていくようになされていきます。主イエスの救いを伝えようとするとき、反対を受けることが起こります。だから、迫害を良く見抜いて賢く行動し、そして心を純粋にして素直に自分の信じる信仰を語ればよいと教えられています。

2023年9月17日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.38  生き生きとした希望

 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、                 

                            ペトロの手紙 第1章3節

 

今朝、召天者記念礼拝を持っています。会堂の北側に先に天に召された信仰の先輩方のお写真が掲示されています。お写真をご覧になって、生前、一緒に過ごした日々を思い出し、懐かしく感じておられることでしょう。その方々と親しく話し合い、その声を聞きたいのですが、それは叶いません。でも、できることとして、愛する信仰の先輩方が、在りし日に、教会に行くことを大事にして過ごされたことを思い、彼らが、苦難の中にも希望を抱いて過ごされたことを覚えて、心を新たにしたいと思います。

今日の聖書箇所で著者ペトロは、神様から自分たちに生き生きとした希望が与えられたことを感謝しています。自分たちは神から離れて罪深い者であったけれども、神の豊かな憐みによって、救い出して頂いたのです。神の憐みは、神の御子イエス・キリストを私たちの罪の代わりに十字架にかけて裁かれ、死んでしまったこのお方を、神は死より復活させられたことにあらわされました。キリストの復活を自分のためと信じる者は、その復活にあずかって生きる希望を持つことができるのです。死では終わらない希望です。新しく生まれ、神と共に生きる希望です。この生きる希望を私たちも頂きたいものです。