2015年10月11日 礼拝説教要旨

喜びの旅路

政所 邦明 牧師

使徒言行録 第8章26-40節

 主題聖句:「フィリポは宦官に洗礼を授けた。…宦官はもはやフィリポをみなかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」

 使徒言行録 第8章38,39節 

                                  

財務大臣にあたる立場のエチオピアの高官が、伝道者フィリポの導きで信仰を持ちました。フィリポがイザヤ書の言葉から主イエス様の福音を伝え、高官は洗礼を受けたいと言い出します。道の途中に川か、泉があったのでしょう。洗礼を受けて、水から上がるとこの人は喜びに溢れます。誰でもキリストによって救われるなら、新しく造られた人になります。古いものは過ぎ去りました。すべてが新しくなったのです。(コリントの信徒への手紙二 第5章17節) 先週、こちらの教会でも洗礼が行われました。すべての罪が赦されて、キリストと共に歩む人生が始まります。そのことを考えるだけで、心が高鳴ります。教会での洗礼の場面と高官の体験とを重ねてしまいました。高官の喜びはどれほど大きかったでしょうか。

 

当時は、地中海沿岸のいたるところにユダヤ人が住んでいました。その影響を受けて旧約聖書の教えに従い、生きていこうとする外国人も現れます。ただ高官は宦官であったと言います。女帝に仕えることもあり、去勢をしていました。エチオピアのために優れた能力を使おうと禁欲し、自己犠牲も厭わなかったのでしょう。旧約聖書には生殖機能をなくす手術を受けた男性は礼拝をする民に加われないと書いてあります。(申命記23:2)エルサレムに巡礼に行っても神殿の奥までは入れなかったのかもしれません。しかし、そのような旧約聖書のしきたりや国籍を越え、主イエス様は罪から救ってくださいます。「旅を続けた」とあります。その後の高官の人生がどんなに喜びにあふれたものであったのかを示しているのです。

2015年10月4日 礼拝説教要旨

主イエスの洗礼

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第3章21-22節

 

主題聖句: 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が…イエスの上に降って来た。」

ルカ福音書 第3章21節 

 

悔い改めの洗礼をバプテスマのヨハネは民衆に授けておりました。罪に染まった人間であることを、神の前に素直に認めるのが悔い改めです。さらに、罪人であるのをお詫びします。そして新しい人間に生まれ変わるのです。これらを象徴的に表すのが水による洗礼です。

 

悔い改めとは“神様の方に回れ右をする”つまり、神様へ心の向きを変えることだと説明されます。悔い改めは本人が自覚的に行うので、誰もその人に代わることはできません。ヨハネは民衆に悔い改めを呼びかけました。しかし、ヨハネの行動は、人々にきっかけを与えたにすぎないのです。

 

この民衆に紛れるようにして主イエス様も洗礼をお受けになりました。主イエス様は罪のない神の独り子です。罪のない方が洗礼を受ける必要はありません。けれども十字架にかけられる前「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」と主イエス様は言われました。(ルカ22:37) すべての人の身代わりとして、十字架にかかられたのです。主イエス様の洗礼も、すべての人の罪を身に引き受ける出発なのです。「自分には受けなければならない洗礼がある」と言われ(ルカ12:50)十字架の死をご自分の〝洗礼〟になぞらえられました。

 

洗礼を受ける時、救いの確かさを〝自分の決心の強さ〟に置こうとします。「一生ぐらつかないで信仰を守り通すぞ!」と力こぶを入れます。しかし私たちはあやふやです。信仰の確かさの根拠は私たちにはありません。自ら、洗礼を受け、十字架にかかられた主イエス様にのみ、あるのです。

2015年9月27日 礼拝説教要旨

栄光に輝くキリスト

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第9章2-8節

主題聖句:「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」

マルコによる福音書 第9章3節

イエス・キリスト様とはいったいだれか?本当のお姿は何なのか!これが、マルコによる福音書の大きなテーマです。12弟子を選び出し、伝道をいっしょにする中で、主イエス様が弟子たちに伝えたい内容であったにちがいありません。ペトロが代表して「あなたは、メシアです」と答えます。言葉としては間違っていないのです。しかし、次に〝メシア〟(救い主)が意味する内容がしだいにイエス様によって、明らかにされてゆきます。

 

そこで、苦難を受け、排斥されて殺され、3日目に復活されるとイエス様は予告されました。「殺される」の部分にペトロは引っかかったのでしょう。イエス様を脇へ引き寄せていさめはじめます。そのような救い主では困る、受け入れがたいとペトロは抵抗を示したのです。殺されるのは惨めでみすぼらしいと決めつけました。

 

“三日目に復活する”とハッキリおっしゃっているのです。弟子たちに主イエス様の言葉が届いておりません。しかし、受難の予告の後、3人の弟子たちだけを高い山に連れてゆかれます。そこで主イエス様は姿が変わりました。着ておられた服が真っ白に光輝いたのです。服ではなく中味である主イエス様が神の独り子としての栄光を放たれました。やがて起こる復活の前触れと考えて差し支えありません。

 

無残な殺され方をするのと素晴らしさがきらめくのとは正反対です。どちらが主イエス様の本当のお姿なのでしょうか。救い主が私たちために苦しみをお受けになるからこそ、御子に神様が栄光をお与えになるのです。

2015年9月20日 礼拝説教要旨

死からの復活

政所 邦明 牧師

ペトロの手紙一 第3章18-22節

主題成句:「…キリストは、捕らわれていた霊のところへ行って宣教されました。」

ペトロの手紙一 第3章19節 

今日は、神様のもとに召された方々を思い起こし、礼拝をささげています。教会にゆかりのある方の生きておられた頃のお姿が心に浮かびます。
上記の「捕らわれていた霊のところ」はいろいろな理解が可能です。その一つは ―「すでに死んだ人のいる場所に」― の意味に解釈します。
“愛する者は自分の手の届かないところに行ってしまったのだ”…と家族を亡くした時、強く思わされます。しかし、生きているものと死んでしまった家族との間を隔てる深い谷間を主イエス様は、超えてくださいました。召された連れあい、両親、家族などのいる場所に、主イエス様は行かれます。たとえ途中を遮るものが無くても、犠牲を払ってまでわざわざ行ってくださるでしょうか。愛がなければできません。
ところが、滅びゆく人を惜しまれる主イエス様は、ひとりの人を探し求めて、陰府にまでも赴いてくださるのです。「捕らわれている」とは監視つきで自由に身動きの取れない所を意味します。さしあたり、牢屋が思い当たるでしょうか。自由を奪われるのは、すでに死んだものも、死におびえなければならないわたしたちも無関係ではありません。さらに、“人間は罪の奴隷である”と聖書は言います。
死にも罪にも捕らわれの身であるわたしたちを解放するために、主イエス様はただ一度、十字架につかれ、人間の罪を完全に償われました。たとえ、捕らわれ人たちのところへゆかれたとしても、救いがなければ無意味でしょう。イエス様が十字架で死なれたことこそが、確かな保証なのです。