2015年11月22日 礼拝説教要旨

主イエスに従う

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第10章17-22節

 

 主題聖句:「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い…それから、わたしに従いなさい。」

マルコによる福音書第10章21節 

 

                                  

たくさんの財産を持っている人と主イエス様との対話が始まります。この人が主イエス様に走りより、ひざまずいて尋ねました。その態度からもこの質問が切迫した、真面目な内容であることがわかります。

 

十戒のうちの第5~10番目の戒めをイエス様は答えられました。隣人や父母との関係、日常生活の中で、具体的に第1~第4番目の戒めを守ることこそ、永遠の命を受け継ぐ道だと諭されたのです。1~4では「ひたすらに神様だけを神とし、他のものを神としてはならない」と命令されています。

 

幼い時から戒めを守ってきた自負心がこの人にはありました。その人に向って「あなたに欠けているものが一つある」と主イエス様は言われるのです。石のアーチは最後の要石をはめ込まない限り、ほかの99%をいくら積み上げてもアーチにはなりません。少しの衝撃で崩れてしまいます。この人には財産が神様に代わるものでした。最後は富により頼み、支えにしていたのです。その偶像が心の王座を占めている限り、まことの神様を神様とすることはできません。足りないものがわずか一つでも、それが欠けているために神に従うことのできない決定的な一つだったのです。

 

「神おひとりのほか、善い方は他にだれもおられない」と主イエス様は言われました。主イエス様こそが神を神とされ、ご自分を捨てて、十字架に向って進んで行こうとされています。この方こそ「善い先生」以上の「善い方」つまり、神の独り子イエス様なのです。すべてを捨てて、イエス様に従う時、十字架の救いによって、永遠の命を私たちはいただけるのです。

 

2015年11月15日 礼拝説教要旨

子供を祝福する

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第10章17-31節

 

 主題聖句:「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

マルコによる福音書第10章15節 

                                  

〝子供!〟と聞くと何を連想されるでしょうか。無邪気、純真、素直などでしょうか。確かに一面、当たっています。しかし、未熟で、わがまま、感情の赴くままに行動する面も子供は持っています。聖書では、無条件に子供をほめたたえてはおりません。旧約聖書でも、また新約聖書でも子供は教えられ、しつけを必要とする未熟な存在なのです。

 

だとすれば、「子供のように神の国を受け入れる」とは「疑いもなく、素直に神の国を受け入れる」意味にかならずしもならないのです。子供は自活できず、ほかの人から助けを受けなければ生きていけません。“神の国を受け入れる”とは信仰に関することです。「素直に、信じる」以外を考えてみる必要があります。〝子供〟から喩えの意味を引き出すとするなら、おそらく、無力で、〝小さい〟側面でしょう。造られたけれども罪を犯し、神様から離れたために、私たち人間は無力なのです。救われるために無力なのは大人であろうと子供であろうと人間は同じです。ただ、大人よりも子供の方が〝力の無さ〟をよりはっきり示すにすぎません。救いのために無力であれば、どうしても謙遜にならざるを得なくなるでしょう。救いを求めようとすれば、与える人に向って、空っぽの手を差し出す以外にありません。まるで物貰いだと言った人があります。

 

神の国は、神様がすでにお造りになったのです。人間が造れるものではありません。また招待されなければ、入れません。神様が許可されてはじめて入れてもらえます。私たちはまったく受け身なのです。

2015年11月8日 礼拝説教要旨

伝道に遣わされる

 

 

政所 邦明 牧師

 

 

マタイによる福音書 第10章1-15節

 

 

 主題聖句:「イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し」   

マタイによる福音書 第10章1節

 

                                   

ご自分の所に集まってくる群衆は、どの人も弱り果て、打ちひしがれているように主イエス様の目には映りました。この人たちがほんとうの飼い主を見出していないからです。(9章36節)群衆をまことの飼い主へ導くのは弟子たちの役目です。

 

群衆は疲れ果てています。その状態は神様にとっては別の面を持ち、収穫されるのを待つ実った穀物に喩えられるのです。(9章37節)その人達が主イエス様のものとされ、迎え入れられるために弟子たちが遣わされてゆきます。弟子たちが自分で思いつき、勝手に行動するのであれば、「神さま!働き手を送ってください」とわざわざお願いする必要はないでしょう。穂に鎌を入れ、束に結わえ、倉庫に運ぶ農作業は大変です。しかし、この取り入れは、打ちひしがれている人が真実の救い主を見出すように導くものです。人の心に関わっています。人間の力だけでできるものではありません。それだからこそ神様の力が与えられるように心を込めて祈るのです。

 

弟子たちにご命令になるだけではありません。ご自身も12人を選ぶ際には祈られたのでしょう。悪霊を追い出し、病気を癒す全権を弟子たちに与えられます。飼い主を見失った神の民イスラエルの人々を〝羊〟と呼ばれました。(10章7節)弟子たちは遣わされていくにすぎません。また弟子たちそのものに力が備わっているのではなく、送り出してくださるお方にあるのです。遣わされてゆく者は、授けられた全権に信頼を置きます。その際も、“思い煩うな”の主のお言葉が弟子たちを後押しするのです。