2016年9月18日 礼拝説教要旨

 復活の希望

三好 晴夫 牧師

テサロニケの信徒への手紙一 第4章13節-18節

 

主題成句:「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエス信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」 

 テサロニケの信徒への手紙一 第414

 

 

今朝は召天者記念礼拝を持っています。記念するとは覚えることです。先に神のもとに召されて行かれた方々が、生前、どのような歩みをして、共に過ごしたかを憶え、その生涯を導かれ、私たちをも導いておられる神様を見上げて、ほめたたえる時を持っています。

 

実際に、先に召された方々を覚えることは、悲しく辛いことです。以前肉声をもって語ってくれたあの元気な姿を見ることは出来ません。その人に語りかけて、その人からの返事を肉声で聞くことは出来ません。今もなお耐え難い悲しみにあふれます。その事実は大きいです。ですけれども、もう一つの事実にも目を留めたいのです。故人が人生の中で行き詰まりを覚えた時、神の憐れみによって主イエス・キリストの成し遂げられた十字架の救いを知り、その救いを自分の救いとして信じ受け入れ、自分の罪の赦しを受け、神の復活の命にあずかり、主イエスに導かれて過ごされたと言う事実です。ある方にあっては人生の最終の場面で、家族の愛と祈りの中で、信じるように導かれて、神のみもとに導かれた方もあります。それぞれの人生が神によって導かれ、幸いな人生を過ごされたのです。それで、故人はその信仰のゆえに、救われ、神のいのちによって神に導かれて今は神のみもとにあります。

 

私たちはいつか死を迎え、神のご支配の中に行きます。その場所は人間の造った場所ではなく、神の備えられる住まいです。先に召された方々はそこで眠っておられ、主イエスが死者の中から復活された御業のゆえに、主イエスとともに導かれ、主と会うのです。私たちも共に待望したいと思います。

2016年9月11日 礼拝説教要旨

 ただ信じなさい

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第5章21-24節、35-43節

 

 

主題成句:「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」      

マルコによる福音書5章36節

 

 私たちの出会う大きな苦しみとして、身近な存在が突然、重い病気などで厳しい状態になり、もっと厳しくなることがあります。そんな戸惑い、苦しむ私たちを、主イエスはどう受け止め、どう助けて下さるのでしょうか。

 

当時、ユダヤ人の尊敬を集めていた会堂長ヤイロの娘が、重い病気で死にそうになっていました。父親ヤイロは、自分の立場も世間体も捨てて、主イエスに助けを求めました。それで、主イエスはヤイロと一緒に彼の家に向かわれました。しかし、大勢の群衆が主イエスに押し迫っていて前に進めません。そんなとき、会堂長の家から人が来て、娘がなくなったと知らされたのです。娘が生きていたから、彼は主イエスにお願いしていたのです。しかし、娘は死んだ。これからどうしたら良いのか、父親は途方に暮れたでしょう。厳しい現実を突きつけられて悲しむ父親を慰める言葉を誰が持っているでしょうか。

 

しかし、主イエスは彼に伝える言葉を持っておられます。『恐れることはない。ただ信じなさい』 主イエスは、恐れや不安で一杯の父親に、恐れるな。わたしが人間のいのちを支配し、治めている。わたしはあなたと共にいる。わたしを信じなさいと語られたのです。主イエスはそう言うことの出来るお方なのです。

 

こう語って、主イエスは向かった彼の家にいる人々に、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と語り、娘に「起きなさい」と呼びかけられて、起こされたのです。主イエスが十字架にかかられて後、死人の中より復活されることを予告する力ある御業であります。

2016年9月4日 礼拝説教要旨

イエスに触れる信仰

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第5章21-34節

主題成句:「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。」

マルコによる福音書5章30節

 

 今日の聖書箇所に登場するのは、十二年間も出血の止まらない女性です。その病気の苦しみと共に、この病気は祭儀的に不浄とされ、ユダヤ社会から全く疎外されるという苦しみがありました

 

彼女はイエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、誰にも気づかれないように、うしろからひそかにそうっとイエスの服に触れたのです。それは、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。

 

そういう姿は、主イエスの服に不思議な神秘的な力があると思って、主イエスの服に触って自分のいやしを求めることなので、とても信仰と言えないものでした。しかし、自分が祭儀的に汚れている身体なので、主イエスに正面から近づくことは出来ないけれども、直していただきたいという一心で、群衆の中に紛れ込んで主イエスの服に触ったのです。それにもかかわらず、その時、彼女は自分が全く癒されたことを感じたのです。

 

同じ時、主イエスも自分の内から力が出て行った事に気づかれ、群衆の中で振り返り、御自分の服に触った人を探し始められたのです。この時、主イエスは群衆の中に、主イエスの癒しを求めて真剣に触った人がいると気づかれて、本当の触り方をした人を探されたのです。それはその人が自分の姿を隠したまま主の服に触れて自分の病気を直して頂くことにとどまらないで、主イエスとの生きた交わりを持ってほしいと願われたからです。彼女は隠し切れないと気づき、主イエスに打ち明け、主から「あなたの信仰があなたを救った」と豊かな励ましを頂きました。主との交わりに私達も導かれたい。