投稿者: matsuyama-alliance
2017年3月19日 礼拝説教要旨
最後の晩餐
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第14章12-26節
主題聖句:一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
マルコによる福音書14章22節
主イエスの最後の晩餐は、過越の食事であったと、マルコによる福音書は記しています。「除酵祭の第一日」にユダヤ人たちはこの日から1週間家中からパン種を除き過越の日と出エジプトの救いの出来事を思い起こし過越の食事をしたのです。
弟子たちも当然のようにして過越の食事を準備しようとしたとき、主イエスによって指定された場所に行き、過越の食事の準備をし、そのように準備された場所で、主イエスと12人の弟子たちは一緒に席につき食事をしました。
その食事の席で、主イエスは聖餐式を制定されました。主イエスはパンを取り、それを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取りなさい」
「取りなさい」とは、あなたはこれを取って食べなければならないという主イエスの命令です。主イエスは、ご自分が弟子の裏切りによって捕えられて殺されることを知っておられました。その主を裏切る弟子や主を見捨てていく弟子たちのために、パンを裂くように、主御自身はご自分の体を裂かれるのです。それを取りなさいと命じられたのです。「これはわたしの体である」。これは主イエスの体そのものであると示されました。ご自分の全部を、十字架でご自分の肉体を引き裂かれることによって与えられるのです。信仰をもって頂く時、私たちにキリストが命を与えられます。
2017年3月12日 礼拝説教要旨
信仰の祈り
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第11章12-14節 20-25節
主題聖句:そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
マルコによる福音書11章9節
そこに葉の茂ったいちじくの木がありました。しかし、主イエスが近寄ってみると、葉のほか何もなかったのです。主イエスは救い主としてエルサレムに入られ、このいちじくの木に、エルサレムの町の人々の信仰の姿を重ねてご覧になったのです。壮大な神殿が建ち、鳩を売り、両替する商人が忙しく働いています。犠牲をささげる祭りが盛大に行われていました。多くの人の目には、立派な礼拝がささげられているように映りました。しかし、主イエスの目には葉ばかり茂らせて実のないいちじくの木と同じに映ったのです。神の民であるイスラエルの民に真の信仰を持っている姿を見い出したかったのです。けれども、全くなかったのです。それで、主イエスはイスラエルをいちじくの木に見立てて、これをさばき、枯らしてしまわれたのです。
主イエスが求められた実とは何でしょうか。「神を信じなさい」。悔改めて神を信じる信仰です。自分の思いや都合のために神に協力してもらおうとすることを止めて、自分の弱さと罪を知って、神のみを信じることです。私たちも、葉ばかり茂らせて実のないいちじくの木のような信仰生活をする危険があります。主イエスは、「少しも疑わず…信じるならば」と言われます。神を信じて祈る時、全能の神の力が働き、聞かれるのです。
2017年3月5日 礼拝説教要旨
主の名によって来られる方
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第11章1-11節
主題聖句:そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
マルコによる福音書11章9節
イエス一行がエルサレムに近づいていました。エリコからベタニアを通って都に入ろうとしていました。その時、イエスは子ろばを見つけて、それに乗って入城しようとされました。それは、ゼカリヤ書9章9節にあるように、来るべき王が子ろばに乗って入城されるとの預言を行動で示されたのです。
子ろばが見つかり、その子ろばにイエスはお乗りになってエルサレムに入っていかれました。その姿を見た人々は、自分の上着を次々にイエスの歩まれる道に敷き、またほかの人々は野原から葉のついた枝を切ってきて道に敷きました。そして人々は行列を作って「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫びました。
「ホサナ」の本来の意味は、詩編118:25にある「どうか主よ。わたしたちに救いを」という意味なのですが、この時の人々には、祝福され、栄光あれ、万歳という叫びでした。それは、彼らが、イエスが子ろばに乗って入城される姿を見て、イエスこそこの世の権力者として自分たちの国をローマ帝国から救い出してくれると期待したからです。今こそ、イエスによって救いが来たと叫んだのです。しかし、イエスは軍事的な王となられません。自ら身を低くして、人々に苦しめられ、嘲られ、十字架にかかられるために進んで行かれ、人々を罪から救い出してくださるのです。