2012年9月9日 礼拝説教要旨

「 信仰 」

 

政所邦明牧師

フィリピの信徒への手紙 第4章19節

 

主題聖句:「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」

フィリピの信徒への手紙第4章19節 

 「わたしの神」とパウロは申しました。第1章3節にも「わたしの神に感謝し…」とあります。「わたしたちの神」と言えば、「信じる者たちすべてが共に見上げる神」となり、それはそれで一つの言い方です。

ところが「わたしの神」だと「わたしだけの神」のように感じられ、“独り占め”しているように聞こえます。しかし、信じる者はハッキリと「わたしの神」と言えるはずです。複数形の中に「わたし」が埋もれて、信仰の主体が曖昧になることはありません。―「他のだれでもないこのわたしにとっては、イエス・キリストによってわたしを救ってくださる神こそ、本当の神、ほかに神などありえない。」―パウロは自分と父なる神との強い結びつきを示します。パウロと神との結びつきの強さはどこから生まれてくるのでしょうか。パウロは「わたしの神」が何をして下さったかをよく知っているのです。一言で言えば神の恵みです。…神はわたしを罪から解放してくださいました。他の人が何と言おうと切っても切れない関係があります。だから「わたしの神」としか、言わざるを得ないのです。…パウロの強い確信が伝わってまいります。「この世界には神という偉い方がいらっしゃりそうだ。」などと言うのとは全く違います。20節で、パウロは神に栄光を帰し、神をほめたたえます。ただ言葉だけではなく全身を使い、心を込めてそうしています。神と親密でなければ、神をほめることなどできません。神の恵を知らなければ、本当には神と親密にはなれないのです。

 

2012年9月2日 礼拝説教要旨

「私を強めて下さるお方」

フィリピの信徒への手紙 4章13-18節

 

政所邦明牧師

主題聖句:「そちらからの贈り物…それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」  

               フィリピの信徒への手紙 第4章18

 パウロは天幕作りの技術を身に着けており、地中海の東の地方を巡回し、しばらく滞在するときは職人として生計をたてながら宣教に励みました。どこからの援助も受けないで伝道活動をするのを基本としていました。ところがフィリピの教会だけは例外だったと言うのです。お金であったか、物であったか、とにかくパウロの生活を助けました。パウロも「いや私は自立・自給が建前ですから、いただくわけにはゆきません」と言って無下には断らなかったようです。パウロの生活が惨めで哀れだから、気の毒に思って助けてあげようとしたのではありません。フィリピの教会の人々は福音宣教の業に自分たちも与りたかったのです。しかし、パウロのようにいろいろな町を旅して歩くわけにはゆきません。伝道に伴う危難を共に担うとすれば献げものという方法しかない。―フィリピの人々はそう考えたのでしょう。…フィリピの人たちは確かに自分を助けてくれてはいる。しかしそれ以上に“神に対して献げている”… これがフィリピの人々の好意に対するパウロの受け留め方です。人から好意を受けながら、妙な理屈をつけて、結局はパウロが偉そうぶっているのではありません。

信仰者同士の、特に伝道の業にあずかる場合の物のやり取りの意味を考えます。その献げ物が、神の目にどのように映り、意味を持つかが一番大切です。人々が献げ物をもってパウロの働きに参与した事は麗しいことです。しかし、神に覚えられなければ、虚しいでしょう。人が誰も気が付かなくてもフィリピの人々の好意を神は喜んでおられるとパウロはいうのです。

2012年8月26日 礼拝説教要旨

「信仰」

 

ローマの信徒への手紙 第3章21―26節

 

政所 邦明 牧師

 

主題聖句:「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」

  ローマの信徒への手紙 第3章22節

 信仰とは「信じる」とか「信頼する」とかに言い直せる言葉です。類語に“信心”があります。何をどう信じるか、信じている教義が必ずしもハッキリしていなくてもいいようです。「イワシの頭も信心から」と言われるように「信仰内容よりも、なんでも素直にありがたがる“熱心さ”“信心深さ”が大切なのだ」ということになりかねません。「それだけ熱心に信心していると、何か良いこともあるはずだ」と皮肉交じりに言う人もいるでしょう。

キリストの教会が伝える「信仰」は“何を信じるか”が明確です。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(ローマの信徒への手紙第1章17節)「福音」を信じるのです。福音の中に“神の義”が啓示されています。“神の義”とはいったい何でしょうか。“神の義”は神がお造りになったことを忘れ、神に背いた人間に表されます。人間は何よりも神に対して罪を犯しました。人間を処罰し、滅ぼす道もあったはずです。しかし、神はそうはなさいませんでした。イエス・キリストをわたしたち罪人の身代わりに十字架につけ、滅ぼすのではなく、救ってくださったのです。私たちは救いに関しては全く無力で、自分で自分を救うことはできません。それではどのような道が残されているのでしょうか? ―神が与えてくださったものを、素直に感謝して受け入れる― その道だけです。信仰とは、神が準備し、イエス・キリストにおいて提供してくださった救いを、受け取ること、信頼することです。罪を赦されて嬉しいと喜ぶ者でなければ、救いを信じる事はできません。

2012年8月19日 礼拝説教要旨

「愛」

 

コリントの信徒への手紙一 第13章13節-14章1節

政所邦明牧師

 

主題聖句:「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である。」

コリントの信徒への手紙一  第13章13

 

 どんなに価値があるものでも変化し、劣化し、最後に滅びて無くなってしまうものであれば、虚しいでしょう。「万物流転!世の中とはそうしたものさ」と諦めがちに言うこともあります。パウロも、預言、異言、知識など今教会で重んじられているものも、やがては廃れ、途絶えてしまうと申します。それはそれらのものに力がないからではありません。預言などの働きが必要でなくなる時が来るからです。完成の時まで一定の期間使命を与えられます。しかし、完成の時を迎えたならば、預言はその使命と役割とを終えるのです。

それに比べて信仰、希望、愛だけは残る。その3つのうちでもっとも大いなるものは愛だとパウロは言います。「愛は決して滅びない」(同章8節)この箇所は愛を讃えている「愛の讃歌」と言われます。たとえ、愛の素晴らしさを歌い上げ、憧れたとしても、そのような完全な愛を経験できなければ何の意味もありません。わたしたちが日常で経験する愛は移ろいやすく、裏切りや失望や幻滅を伴うものではないでしょうか。とても「いつまでも残る」とは言えません。ここで言われている愛は好きになったり、嫌いになったりの“人間の情愛”とは区別された聖霊の賜物としての神がくださる愛です。しかも愛だけが残るとは言わないで、信仰も希望も永遠に残ると言っています。これらの2つと切り離した愛ではなくて、信仰や希望と深く結びついた愛です。―神に信頼し、期待を寄せる愛―信仰も希望も最後には愛に行き着き、愛に尽きると言えるでしょう。信仰とは主イエス・キリストの十字架の赦しを抜きにして考える事はできません。ここにこそ愛の源があるのです。