2014年6月29日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

祭 壇

 

サムエル記下 第24章18-25節

ヘブライ人への手紙 第13章10-16節

 

主題聖句:ダビデはガドに言った。「…主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」   

サムエル記下第24章1

                                    

ダビデは人口調査を思い立ちます。統計を取り、客観的に国力を知りたかったからでしょうか?調査をすると、徴兵できる男子の数を把握できます。調査は戦争の準備になり、結局は自分の力を誇ることに通じます。そのことに気がついたダビデはたいそう悔やみました。

人口調査の発端を聖書は次のように述べます。「主は、『イスラエルとユダの人口を数えよ』とダビデを誘われた。」(サムエル記下第24章1節)わたしたちを悩ませる表現です。神が人を悪に誘い込むことは考えにくいのです。(ヤコブの手紙第1章13節) ダビデの心が人口調査に傾いたということでしょうか。ダビデの選択に当たって、神が無理に仕向けられたとは思いません。調査をしない選択肢もあったはずです。本音は自分がしたいだけなのです。それなのに「あなたの望むようにしなさい」と神がおっしゃっているかのようにわたしたちは錯覚します。自分の思い込みと神のみ心を混同し、すべて神のせいにしたことをダビデは恥じたのだと思います。

 

この罪に対して先見者(預言者)ガドを通じて神はダビデに語られました。3つの刑罰のうちから1つを選ぶように言われたのです。その時にダビデは自分で選択せず、一切を神に委ねました。「神のお決めになることはどのような内容でも甘んじて受けます。」自分に任された選択権を卑怯にも回避したのではありません。自分の思いのままに人口調査を断行して失敗したダビデは委ねる幸いを学び取ったのです。その信仰は、アラウナの麦打ち場を自費で買い求め、祭壇を築いて礼拝する行為となって現れたのです。

 

2014年6月22日 礼拝説教要旨

神が勝利される

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記下 第23章13-17

フィリピの信徒への手紙 第2章12-19

 

主題聖句:ダビデはこの水を飲むことを望まず、注いで主にささげ、「…これは命をかけて行った者たちの血そのものです。」

サムエル記下第23章17節 

                                   

ダビデは主を畏れていました。その信仰が困難を受けとめさせ、乗り越えさせていった秘訣でしょう。しかし、戦は軍隊と軍隊とのぶつかりあいです。いくら優れた総大将とはいえ、ダビデが孤軍奮闘するのでは勝利はおぼつきません。命がけで共に闘ってくれる仲間が要ります。人がついてきてくれるのも司令官の器量です。その器量は、また部下を優れた勇士に育てあげます。ダビデに人を引きつける魅力が備わっていただけのことでしょうか。そうではありません。ダビデの人格の中心には信仰がありました。

 

ベツレヘムはダビデの出身地で、まだ羊飼いの少年であった時、すでに預言者サムエルから香油を注がれて、王に任命された場所です。そのベツレヘムが敵の手に落ちています。きっと胸が張り裂けそうなになったでしょう。

 

ある時、ふと、「ベツレヘムの城門の傍らにある井戸の水が飲みたい」とダビデは漏らします。すると3人の勇士が危険をも顧みず、無我夢中で汲んできます。わがままで“生まれ故郷の水が飲めたらいいのに”と言ったのでしょうか?おそらくそうではなく、自分の人生の原点を思いつつ、神に渇き、神を慕い求めたのでしょう。願望が思わず口をついて出ただけで、命令してはおりません。部下たちがダビデの心を汲みとって、自主的に挑んだのです。

 

その水をダビデは飲めませんでした。水が部下の命そのものに思えたからです。その代わり、神に対するささげものとしました。自分の命も部下の命も神のものであることを知り、全てを神にお返ししたのです。その時、自分もまた神の支配の中に置かれたことを確信し、神の勝利を信じたのです。

2014年6月15日 礼拝説教要旨

神の訓練

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記下 第19章32-40節

ヘブライ人への手紙 第12章1-11節

 

主題聖句:「力を落としてはいけない。…主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

へブライ人への手紙 第12章6

                                    

イスラエルの王とするために神はダビデをお選びになりました。しかし、選ばれた人物であっても罪を犯す点ではわたしたちと何ら変わるところはありません。豊かな才能は、そのままでは神に用いられなかったのです。神の御業にふさわしく訓練を受け、整えられていきます。刀鍛冶が鋼を鍛えて、見事な刀剣に仕上げてゆく様子を想像しました。何度も打ち据えて、炭火で熱しては急激に水に浸け、「焼入れ」を繰り返します。その工程で、鉄は不純物が取り除かれ、ポキリと折れない、しなやかで粘り強い、性質を獲得して行くのです。そのように神からの訓練を受けないで、神の御業、(神の働き)のために用いられることはありません。

 

ダビデは王の位に就き、全部合わせて、40年間、統治いたします。その間、紆余曲折がありました。神の期待に叶う王になるためにどれほど涙を流し、冷や汗をかき、悲しみと苦しみを乗り越えてきたことでしょう。そして苦しみの果てにやっと神の御心に叶う王となって行くのです。

 

志願して特訓を受ける運動選手もいます。しかし、私たちは、生きていると予期せぬことに出会います。神の方から試練をお与えくださるのです。人生の試練が“学び舎” で、その学校で、自分に絶望し、神に導かれ、委ねるように鍛えられてゆくのです。「鍛錬は当座、喜ばしいものではなく、悲しいものに思える。しかし、後になって鍛え上げられた人に平安な義の実を結ばせてくださる」とヘブライ人への手紙は申します。(12章11節)訓練の結果、ダビデは神の前に“それで善い”といってもらえる器となるのです。