2021年8月15日 礼拝説教要旨

      

 きょうどう-2021年 No.33 善をもって悪に勝て

      

 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。      

マタイによる福音書第5章39節

 

「目には目を、歯には歯を」という言葉はよく知られています。この言葉の本来の意味は、レビ記24章20節を見るなら、人々がケンカをして、人に被害があれば、その傷害を加えた者はそれと同一の傷害を受けなければならないという刑罰の定めでした。被害に応じた罰が定められていて、それ以上の仕打ちを止めていたのでした。しかし、ユダヤ人指導者たちは、目がやられたら、必ず目を打つ、歯をやられたら、歯を打たなければならないと教えたのです。そのように、今日でも解釈されているのではないでしょうか。

 

これに対して、主イエスは「悪人に手向かってはならない。」と教えられました。悪人が自分に被害を加えてきたら、こちらは大変苦しんでしまいます。それなのに、悪人に手向かわないでいることが果たしてできるでしょうか。怒りや恨みを抱かず、相手に仕返しをしないでいるのは難しいことです。誰にもできないことのように思います。

 

ですが、この言葉を聞いている私たち、すなわち、神を信じ主イエスを信じている私たちには、主の憐みによってさせていただけるかもしれません。自分が神から赦していただいたと言う思いを頂いて、このことを自分で解決するのではなく、神が放っておかれない、後始末をしてくださると信じるとき、神がさせてくださるのではないか。

 

2021年8月8日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.32 真実に生きる             

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

              マタイによる福音書第5章37節

 

ここで主イエスは「一切誓いを立ててはならない」と言っておられます。

 

「誓う」ということは、ごく日常的に行っていることです。「洗礼式」「結婚式」「任命式」など、いろんな機会に誓約・約束をしています。誓いをすることで、自分が神の前に真実であることを表そうとしています。しかし、誓う時、どこか自分をより信用をされたいと思って、偽って誓ってしまったり、誓ったけれども、最後まで守れないこともあります。私たちのする制約や約束が、その誓約をする時だけはよく頑張ってしまって、その後は、続かなくなるのはどうか、と主イエスは問いかけておられます。

 

むしろ、主イエスは、誓うことをやめて、「ハイ」は「ハイ」と言い、「いいえ」は「いいえ」と言いなさいというのです。それは、日常生活の中で真実な言葉で言い表すようにしなさいとことです。私たちの語る言葉が、真実であるようにと勧められます。私たちは、つい自分の努力や精進をもって神の前に認められなければいけないと思い頑張ってよく見せようとしやすいものです。そのような不真実な私たちを主イエスはご自身の真実をもって覆ってくださっています。主の真実を受け止めて、主の真実に支えられて生きていきたい。

2021年8月1日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.31 清く正しく生きる

      

しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

              マタイによる福音書第5章28節

 

「姦淫してはならない」。これはモーセの十戒の一つですが、私たちはこの戒めをどう受け止めているでしょうか。結婚している者は配偶者以外の異性と性的関係を持つことを、浮気、不倫と呼び、世の中の人は、よくあることと思っているのではないかと思います。でも、主イエスは、上記の言葉を語られ、まことに厳しくいましめておられます。

 

この言葉は、心を問題にしています。心の中で情欲を持って他人の妻をじっと見るならば、すでに心の中でその女を犯したのですというのです。情欲をもって相手を自分のものにしようとすることは、もうすでに姦淫の罪を犯したのだというのです。自分はそのようにはならないということは誰にも言えません。誰もがこの誘惑・欲望から免れないからです。しかも、このように相手を情欲を持って見てしまうことは、魅力的で、すーっと心の中に入って魅了してしまうものです。

 

「姦淫」の問題は、神が私たちに与えられている結婚の誓いを破ってしまうことです。結婚の関係を重んじ、夫が妻を愛し、妻が夫を愛することが大切です。これを破ろうとする誘惑は、心の中から出てきます。ですから、この自分をつまずかせてくるものに対して、断固として退けなければなりません。

2021年7月25日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.30 腹を立てるな 
         
 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受け
る。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。    
                                   マタイによる福音書第5章22節

 主イエスは、御自分が来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためであると語られました。それは、律法をお与えになった神が、どんな思いで律法をお与えになったかを、ご自分が人々に正しく知らせられたからです。それで、主イエスは律法の本来の意味を、ご自分の言葉で明らかにしていかれたのです。

その一つが、今日の箇所です。当時のユダヤ人たちは、昔の時代から「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と教えられていました。「人を殺してはならない」という戒めは当然守るべき戒めだとわきまえていました。もし人を殺すならば、裁きを受けることは当然だとわかっていました。

「しかし、わたしは言っておく」と新しい言葉で語り直されました。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」。殺さなくても兄弟に心の中で腹を立てるならば、その人は神から裁かれるのです。でも実際、世の中のひどいことや身近なことにも、腹を立てることがしばしば起こっています。でも兄弟に腹を立てて、兄弟を「愚か者」と非難するなら神から裁きを受けると主イエスは言われます。こう語られる主イエスが、腹を立てる私たちを責められるだけでなく、私たちを救い出そうとしておられるお方だから、こう語られるのです。