2021年10月31日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.44 天に富を積みなさい

富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

        マタイによる福音書 第6章20節

 

 神を信じて歩む私たちですが、地上で生活するわけですから、ある程度のお金が必要です。お金なしには生活できません。そしてある程度の富を蓄えて、安心を得ようと生きています。

主イエスは今日の箇所で「地上に富を積んではならない」と教えています。地上に富を蓄えると虫やさびによって朽ちます。その富が盗まれてしまうこともあるからです。地上に蓄える富は一時的には安心を与えてくれますが、自分を死から守ってはくれません。

「天に富を蓄えなさい」と教えています。「天」それは神様です。神様に心を向けることです。私たちは国籍を天に持っている者ですから、神に心を向け、神に喜ばれるように生きることです。神から多くのものを与えられています。与えられたものを、自分のものとしないで、神様のものとして用いていくことです。神様に私たちが心を向けることができるように、もうすでに父なる神様はイエス・キリストという宝を私たちに用意していてくださいます。神様の御前に私たちの罪の赦しがあり、永遠の命の祝福があります。私たちはこの天の宝に心を向けて、その恵みを味わいながら神に喜ばれることをさせていただくのです。

2021年10月24日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.43 暗い顔をしないように

 

断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。        マタイによる福音書 第6章16節

 

 この箇所で、主イエスは断食を勧めているのでも、否定しておられるのでもありません。当時の人々が、信仰のあり方の一つとして守っていた断食に注目し、この断食のあり方を通して、今日の私たちの信仰生活の基本的なあり方を明確に指摘しておられるのです。

断食は、少しの期間食事を断つことです。旧約時代以降、イスラエルにおいて、神の前に罪を悲しみ悔い改める時に、断食をして、心も体も集中して深く罪を自覚し、神に心を向けて祈りと悔い改めをしました。深く悲しむために自ら食を断つことをしたのです。

主イエスが教えられたことは、信仰生活は、人にではなく神に見てもらうことを心がけよということです。神に心も体も向けて断食するときに、誰かに見てもらい、自分がちゃんと信仰生活をしているのを見てもらおうとしてしまうことがあったのです。それでは、神に向けてではなく、人に認めてもらおうとしていることだと指摘されています。むしろあなたの断食が人に気づかれないで神にだけ見ていただくようにしなさい。暗い顔をせず、喜んで過ごしなさい。主イエスにあって神の前に罪を悔い改めることは、主イエスから罪赦されて喜びに至ることだからです。主イエスが共におられます。このお方と共に喜んで歩むのです。

2021年10月17日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.42 試みに遭わせず

 

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

 マタイによる福音書 第6章13節

 

 私たちの罪を赦してくださいと求めた者が、「試みに遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るのは自然なことです。信仰生活は、神に喜ばれるように生きる者になることだからです。そのために、悪いことをしないような生活をしなければなりません。しかし、私たち人間は弱く、試みに遭えば、ひとたまりもなくやられてしまいます。だから、聖い生活を求めて悪から救い出してくださいと祈るのです。

ところで、「試み」とは何でしょうか。「試み」という原語には二つの意味があります。一つは、「試みる」「試練」で、信仰が育つように試す、テストするとの意味です。最初は苦しみや辛い経験があったとしても、その試練を耐え忍んでいくとき、信仰が育っていくのです。試練は必要なものとしなければなりません。  もう一つの意味は「誘惑」です。悪へと誘っていく力です。私たちは誘惑されやすく、欲に引かれて、誘われて、罪を犯します。悪の背後には、悪い者の存在があり、神から引き離そうと誘惑し、人間に罪を犯させようとします。このような誘惑から、私たちは守られるのでしょうか。悪魔の誘惑に勝利され、私たちを救い出された主イエスが私たちの試練や誘惑から救い出してくださいます。だからこそ、私たちも、この祈りをすべきなのです。