2022年7月24日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.30 神に対して生きる

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。         

ローマの信徒への手紙 第6章6節

 

罪を赦された後、私たちは、どのように罪から聖められるのでしょうか。

キリストが私たち人間の罪を背負って十字架に死なれたとき、私たちのために死んでくださったのです。それを信じるとき、私も十字架で死んだ者とみなされ、私たちの罪が赦されました。そして、神の御力によってキリストが死から復活されました。その復活を私たちのためと信じる時、私たちも復活の命に生かされるのです。この恵みによって私たちも救われ、生かされるのです。

その救いの御業について、パウロは、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」と説明します。この「古い自分」とは、罪と死の支配下にある人間性のことです。私たちは生まれながら一人残らずそのような人間でした。そのような古い自分が、キリストが私たちを罪から救い出すために十字架にかかって救いの御業をなさったと信じる時、キリストに結び合わされて十字架につけられ死んだ者とみなされるのです。私たち自身は十字架で死んだわけではありませんが、キリストの成し遂げられた御業のゆえに罪の力から解放されるのです。そして、キリストが神の力によって復活され生きておられるので、私たちも生きるのです。

2022年7月17日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.29  新しい命に生きる

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。          

ローマの信徒への手紙 第6章4節

 

主イエス・キリストが、私たちの代わりに十字架で命を犠牲にして私たちの罪の罰を受けてくださいました。この救いを私のためだと信じ受け入れる時、私の罪が赦されるのです。私の罪が赦されるということは、罪に対して死んだということです。罪の支配から解放されたのです。

罪に対して死んだ私たちであるということは、どういうことか、洗礼という礼典の意味を知ることによって理解してほしいというのです。

洗礼は、元々は全身を水の中に沈める礼典です。キリストが十字架にかかって私たちの罪を背負って死んでくださったことを信じて、水の中に身を沈めるとき、信仰によってキリストの死の中に引き入れられ、私も死んだものとみなしていただけるのです。今までの自分が葬られ、古い自分はキリストに結び合わされて死ぬのです。キリストは神の御力によって死より復活されました。それゆえこのキリストを信じて、水から上げられるとき、信仰によってキリストと共に新しく生まれ変わった自分になるのです。罪の身が死んで、新しい人間として生きるのです。キリストを信じて洗礼を受ける時、私たちはキリストと共に生きるようにされるのです。

 

2022年7月10日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.28 アダムとキリスト(2)

人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとす
れば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一
人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
                ローマの信徒への手紙 第5章17節
神様が私たち人間にお与えくださる救いはどのようなものなのでしょ

うか。その救いの大きさを明らかに示すために、パウロは、人間の中

に、罪が入ったために、すべての人に死が及んだとまず語り、次にキ

リストのことを語ります。キリストによって神の恵みが私たち人間に

及んだというのです。
キリストのもたらした恵みの賜物は、最初の人間のもたらした罪と

は比較にはなりません。アダムの罪は人を死に至らせましたが、

キリストの恵みは救いに至らせたのです。キリストの恵みの方がは

るかに大きく、豊かなのです。その恵みがどんなに豊かなのかとい

うと、恵みのもたらす影響力において豊かです。罪が人にもたらし

たものは有罪判決ですが、キリストの恵みが働くとき、罪が多くて

も、無罪とされます。(16節)
キリストの恵みによって生き、支配するようになるのです。(17節)
キリストの救いによって義とされ、命を得ることになるのです(18節)。
キリストの従順によって多くの人が神の前に正しいものとされるのです。

(19節)罪が増したところには恵みもなお一層満ち溢れるのです(20節)。

2022年7月3日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.27  アダムとキリスト(1)

 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。     

ローマの信徒への手紙 第5章12節

  私たち神様を信じる者は、キリストの救いによって罪赦され、死を恐れず、神のいのちに生かされていると信じています。しかし、私たちは人間ですから、いつか必ず死を迎えるという現実の中にあります。肉体はだんだん衰え、先が見えてきます。けれども、キリストの救いを頂いているので、死を恐れるのではなく、死を考える時もキリストの恵みの中で考え、死から解放されていることを覚えることができます。

今日の箇所ローマ5:12~14節で、パウロは、罪が世に入ったのは、一人の人による。最初の人アダムの犯した罪によると語ります。創造主はアダムに一つの戒めを与え、守るように命じていたのですが、アダムは、それを食べると神のように善悪を知るようになるというヘビの誘惑にそそのかされて神に逆らい、その責任を他人に擦り付けました。その結果、神から裁かれ、人間はそのような罪の性質を持つものになりました。その結果、罪によって死が入り込み、死がすべての人に及んでいます。人は罪のために死ななければなりません。アダムは、私たち人間の罪と死を表わす存在ですが、それだけでなく、「来るべき方」、キリストの救いを示す型でもあります。キリストの死によって私たちは罪と死から解放されるのです。