2022年5月29日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.22  イエス・キリストは主である

すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

フィリピの信徒への手紙 第2章11節

 

 私たちは、主日ごとに教会に集い、聖書のみ言葉に基づいて神様を信じ、神様を賛美し、神様に祈る礼拝をささげています。その際、何を覚えるかというと、神さまのあらわされた救いの御業です。それを覚えて皆で心合わせて礼拝をささげています。神さまのあらわされた救いの御業とは、神様がその独り子イエス・キリストをこの世に遣わされて、このお方を通してあらわされた救いの御業です。

先週、キリストが神の栄光を捨てて私たちのところに降りてこられ、自分を低くしてしもべとなって十字架にかかってご自分の命をささげて私たちを救ってくださったというキリストのへりくだりを学びました。今日は、主イエスが、ご自分を低くしし十字架で死んでくださったゆえに、神がこのキリストを高く上げられたことを学びます。

キリストはへりくだってご自分を低くされ十字架の上で私たちの代わりに罪人として死なれましたが、神はこのキリストをよみがえらせて天におられるご自分のもとに引き上げ、主という名を与えられたのです。神が主イエス・キリストを死からよみがえらされました。このキリストのへりくだってあらわされた生き方を神は受け入れ高く引き上げられました。キリストのへりくだりと復活された御業の中に守られています。

2022年5月22日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.21  キリストのへりくだり

へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。                

フィリピの信徒への手紙 第2章8節

 

 教会が一つ思いとなるために、へりくだって、相手を思いやることを、パウロは、フィリピの教会の人々に対して勧めます。その際にこころがけるのは、へりくだることです。キリストのへりくだりの心を私たちが受け取ることなのです。

キリストはどのようにへりくだられたのでしょうか。パウロはそれを説明するにあたって、まずキリストはもともと どういうお方であられたかを記します。「キリストは、神の身分でありながら」とあるように本質において神と一つであられ、神と等しいお方であられたお方でした。キリストはこの神の身分に固執しようとは思われませんでした。かえって、自分を無にして、僕の身分になられたのです。神としての栄光・特権を捨てて人間となられたのです。全く人間と同じになられたのです。キリストは、自らを低くされて、十字架の死にまで従われました。私たち人間を罪の裁きから救い出すために、自ら人間の罪を身に受け、裁きを背負って死んでくださいました。このようにキリストが私たちのために低くなって十字架にまで従ってくださったことによって、私たちは救われました。救いを頂いた私たちもへりくだって、互いに仕え合って行きましょう。

 

2022年5月15日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.20  へりくだった心

 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、

                   フィリピの信徒への手紙 第2章3節

 

 先週から、教会において、私たちが共に生きるために、共に信仰を励まし合うために、何が大切なのかを学び始めています。

フィリピ書2章2節で「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」とパウロは、繰り返し語り、共に生きることは簡単ではないが、まず勧めていることは、神様が私たちに与えておられる恵みを受け取って生きることでした。その恵みを受け取ることに心を一つにすることです。

しかし一つになることを妨げものとして「利己心や虚栄心」があります。そういう自分の利益や人の評価を求める思いが私たち人間にあって行動してしまうのです。神様から栄誉を受けることは意識していないのです。それゆえ「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考えるべきなのです。「へりくだる」とは謙遜であり、自分を低く小さい者と認めることです。ここで、へりくだるという意味は、神様の前に自分は神によって造られた者であると認めること、しかも、神の前に罪ある者ですがキリストの恵みを受けて行かされている者であることを知ることです。それを知る時、へりくだって互いに相手を認め合うのです。