2022年4月3日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.14 仕えるキリスト

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

                      マルコによる福音書 第10章45節

 

 主イエスは毅然とした態度で都エルサレムに向かっておられました。その姿に驚く弟子たちに、再びご自分の身に起ころうとしていることを話し始められました。宗教指導者たちに引き渡され、死刑を宣告される。異邦人から侮辱され、殺されると、具体的に予告されたのです。

それでも、受け止めることができない弟子たちに「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と説明されました。

「身代金」は、例えば外国人に何かの事情で身を売って奴隷になったへブル人を買い戻す時の条件として支払う代金です。奴隷となっているその人には、奴隷のままなら自由はない。でも身代金が支払われるなら自由と解放がある。そのように、私たち人間も、神の前に罪を犯してしまっていて、その罪の報いを払わなければならないのです。そのままなら神から裁かれます。しかし、神はそんな私たちを見捨てられず、この主イエスを送られたのです。この主イエスが、私たち人間を償うために、私たちの身代わりにご自分の命をささげて神のさばきを引き受けてくださったのです。この主イエスの払ってくださる愛と犠牲によって私たちは救われたのです。このお方の愛と犠牲を覚えて仕えていこう。

2022年3月27日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.13 栄光に輝くキリスト

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 

               マルコによる福音書 第9章7節

 

 今日の箇所に示されている出来事は、大変神秘的な、まばゆいばかりの幻のような出来事です。これまでガリラヤ湖畔で人々に神の言葉を語られたり、病気の人を治してあげられたりと一日中汗水流して歩き回っておられた主イエスのお姿に比べると、違いが大きく、状況説明が難しいです。しかし、この光景を目撃した弟子のペトロたちには感激と感動があり、のちに主イエスが復活された後に、この時見た栄光に輝く主イエスのことを人々に語り伝えたのです。そのペトロたちの証言を福音書に記録し、この出来事が事実であることを伝えているのです。

高い山の上で主イエスが栄光に輝く姿に変えられたとき、モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合ったとあります。神の律法を代表するモーセ、預言者を代表するエリヤが、主イエスと何を語り合ったのでしょうか。ルカ19:31に「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。主イエスがエルサレムで十字架につけられ、人類の救いを成し遂げられるのです。この神の救いの御業が話し合われたのです。この時、雲の中から声がありました。この苦難の道に進まれる主イエスを受け入れるという父なる神の御声です。

2022年3月20日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.12 苦難の主キリスト

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 

               マルコによる福音書 第8章31節

 

 フィリポ・カイサリアの地に主イエスと弟子たちが行かれた時のことです。主イエスは弟子たちに、「わたしを何者だと言うか」と尋ねられた時、弟子ペトロが代表して「あなたはメシアです」と告白しました。その時から主イエスはご自分の本心を打ち明ける時が来たかのように、ご自分のこれからの進むべき歩みをお教えになりました。

ご自分が必ず多くの苦しみを受け、宗教指導者たちから排斥されて殺されるが、三日の後に復活することになっていることが、神から与えられた進むべき道だと語られたのです。しかし、それをペトロは全く受け入れられません。主イエスをわきにお連れし、いさめ始めました。すると、主イエスは激しくペトロを叱り付け、「サタン、引き下がれ」と言い放ちました。ペトロの思いが、主イエスに政治的な王となって、イスラエルを回復させてほしいという願いであることを主イエスは見抜かれ、その誘惑を断固として退けられたのです。それは、多くの苦しみを受け、苦難の道に進むことが神のご計画であり、人間を罪から救い出すためにご自身がその苦難を受けようとされていたからです。

2022年3月13日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.11 主イエスの御力の源

同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
                      マルコによる福音書 第3章26節

 

主イエスは人々に神の国が近づいたと教えられ、御業をなさっておられました。家に戻られても、大勢の人たちが主イエスのもとに集まって来たら、そこでも応じられ、主イエスも弟子たちも食事をする暇もないほどでした。その姿を見た人々が「あの男は気が変になっている」と言うのを聞きつけた、身内の人たち(主イエスの家族や親族)は心配して主イエスを取り押さえに来たのでした。

エルサレムから、辺境のガラテヤでのイエスのうわさを聞いた律法学者たちがやってきて、イエスのなさっていることが、律法学者たちの信仰の常識をはみ出した行動なので止めさせようとしたのです。イエスがなさっている御業は認めざるを得ないが、それを神の業とは認めず、悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると決めつけ非難したのです。
それに対して、主イエスは、ご自分の働きは、明らかに神の御業であることを明らかに知らせそうとされました。

もしわたしがサタンの力で悪霊を追い出しているのなら、サタンがサタンを押し出すという内輪もめであり、それは成り立たない。わたしは強い力を持つサタンに縛り上げている人間を、もっと強い者であるわたしがサタンの家に押し入って人間を救い出しているのだと語られました