2022年6月12日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.24  子どものように信じる

しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

  マルコによる福音書 第10章14節

 

本日は、「こどもの日」「花の日」という教会の記念日にふさわしいこととして、礼拝で子どもの祝福を祈る時を持とうとしています。そういうことで、子どもを祝福するとはどういうことかを学びたいと思います。今日の箇所で、主イエスに触れて頂こうと、親たちが子どもたちを連れて来ました。主イエスはそれを喜ばれ、その子供一人一人を抱き上げ、手を置いて祝福されたとあります。主イエスが子どもたちを祝福されたことで、親も子も大いに励まされたことと思います。

その時、弟子たちはこの親子たちを叱って追い返そうとしたのです。主イエスは多くの人々に教えておられてお忙しいから、騒がしい子どもたちが近づくのは邪魔だろうという弟子たちの判断でした。しかし、主イエスはそれを見て憤り、弟子たちに注意しました。子どもたちを追い返すな、来させよ。主イエスは子どもたちを受け入れておられたのです。それは、主イエスがいつも教えておられる「神の国」は、このような子どもたちのものだからなのです。神の国、神様が治めるご支配は、子どもたちがいるところです。神は子どもたちを受け入れておられるのだから、子どものように神の支配を受け入れよと教えられたのです。

2022年6月5日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.23  聖霊が降(くだ)る

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。            使徒言行録 第2章4節

 

本日は、教会の誕生を記念する聖霊降臨日です。五旬祭(ペンテコステ)とは、過越祭から50日目でユダヤにおいて小麦の刈入れを終えて、その収穫を感謝する祭でした。自然の恵みに感謝する五旬祭の日に、イエス・キリストの弟子たちに約束の聖霊が降り、聖霊に満たされた弟子たちが大胆にキリストの御業を語り始めたのです。この恵みが与えられて、イエス・キリストを信じる人々が起こされて、信じる群れが誕生したのです。この時キリスト教会が誕生したのです。

復活された主イエスが天に上げられるとき、主イエスは聖霊を送ることを弟子たちに約束されました。それで彼らは皆、一つ所に集まって聖霊を祈り待っていました。そしてこの五旬祭の時も、集まって祈っていたところ、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまりました。すると、一同が聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに他の国の言葉で話し出したのです。まさに聖霊の御業です。

その物音を聞き受けて集まって来た人々は、そこで弟子たちが大胆に自分たちの故郷の言葉で神の御業を語るのを聞いて非常に驚いたのです。この伝道によってキリストを信じる人々が起こされていくのです。

2022年5月29日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.22  イエス・キリストは主である

すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

フィリピの信徒への手紙 第2章11節

 

 私たちは、主日ごとに教会に集い、聖書のみ言葉に基づいて神様を信じ、神様を賛美し、神様に祈る礼拝をささげています。その際、何を覚えるかというと、神さまのあらわされた救いの御業です。それを覚えて皆で心合わせて礼拝をささげています。神さまのあらわされた救いの御業とは、神様がその独り子イエス・キリストをこの世に遣わされて、このお方を通してあらわされた救いの御業です。

先週、キリストが神の栄光を捨てて私たちのところに降りてこられ、自分を低くしてしもべとなって十字架にかかってご自分の命をささげて私たちを救ってくださったというキリストのへりくだりを学びました。今日は、主イエスが、ご自分を低くしし十字架で死んでくださったゆえに、神がこのキリストを高く上げられたことを学びます。

キリストはへりくだってご自分を低くされ十字架の上で私たちの代わりに罪人として死なれましたが、神はこのキリストをよみがえらせて天におられるご自分のもとに引き上げ、主という名を与えられたのです。神が主イエス・キリストを死からよみがえらされました。このキリストのへりくだってあらわされた生き方を神は受け入れ高く引き上げられました。キリストのへりくだりと復活された御業の中に守られています。

2022年5月22日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.21  キリストのへりくだり

へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。                

フィリピの信徒への手紙 第2章8節

 

 教会が一つ思いとなるために、へりくだって、相手を思いやることを、パウロは、フィリピの教会の人々に対して勧めます。その際にこころがけるのは、へりくだることです。キリストのへりくだりの心を私たちが受け取ることなのです。

キリストはどのようにへりくだられたのでしょうか。パウロはそれを説明するにあたって、まずキリストはもともと どういうお方であられたかを記します。「キリストは、神の身分でありながら」とあるように本質において神と一つであられ、神と等しいお方であられたお方でした。キリストはこの神の身分に固執しようとは思われませんでした。かえって、自分を無にして、僕の身分になられたのです。神としての栄光・特権を捨てて人間となられたのです。全く人間と同じになられたのです。キリストは、自らを低くされて、十字架の死にまで従われました。私たち人間を罪の裁きから救い出すために、自ら人間の罪を身に受け、裁きを背負って死んでくださいました。このようにキリストが私たちのために低くなって十字架にまで従ってくださったことによって、私たちは救われました。救いを頂いた私たちもへりくだって、互いに仕え合って行きましょう。