2022年8月28日(日) 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.34 罪を明らかにする律法

   ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。    

ローマの信徒への手紙 第7章4節

 

  「律法」。それはモーセを通して与えられた神からの具体的な指示と教えです。イスラエルの社会の中で、人間のなすべき行動の原理として重んじられてきました。この律法があることによって、人間がどう生きたらよいか、何が間違ったことかを知ることができました。もしこの律法がなければ、何が正しいことかが分かりません。律法と言う基準がないならば、自分が間違っていてもそれに気づきません。律法を通して私たちは自分の罪を知るのです。

パウロは、7節で掟が「むさぼるな」と言わなければ、わたしはむさぼりを知らなかったと言います。私たちがこの「むさぼるな」という掟を知らなかったら、むさぼることが罪であると知らず、このむさぼる心が良くないとは思いません。「むさぼるな」と明確に戒めたのだから、むさぼりは罪です。このように、律法によらなければ、罪を本当に知ることはないのです。律法によって罪を知るのです。「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。」(4節)。人がむさぼるなという掟を聞いたとき、罪はこの掟によって機会を捕らえ、この掟によって罪は刺激され、むさぼる心が自分の中に湧きあがり、むさぼる行動に向かってしまいます。このように律法によって罪を知っても律法には救う力はありません。罪からの救いはキリストによるのです。

2022年8月21日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.34 律法からの解放

 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。

        ローマの信徒への手紙 第7章4節

 

  今日から、ローマの信徒への手紙7章に入ります。6章から始まった「きよめられる」という祝福の続きです。イエス様による救いを信じた者が罪から解放されたという恵みに応えて、神に対して生きる、自分を神にささげ、聖なる生活を目指して生きるように勧められてきました。

その続きとして、7章では、律法からの解放が教えられています。初代教会の時代、ユダヤ社会では、律法が神の意志として守らなければならない規範でした。律法を守ることが救いの条件であり、生きる道でした。しかし、パウロは復活のキリストに出会い救われ、律法によってではなく、キリストによる救いを宣べ伝えるようになったのです。

1~6節では、キリストが十字架で私たち人間のために死んで救ってくださったことのゆえに、私たちもキリストにあって死んだのです。それで律法に対して死んだものとされたのです。律法は、こうあるべきだと道を示しますが、守る力を与えないし、罪に誘います。キリストによって律法から解放されたのですから、律法に生きるのではなく、キリストの救いを信じ、キリストにつながって、解放して頂きましょう。

2022年8月14日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.33 聖なる生活の実を結ぶ

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
                          ローマの信徒への手紙 第6章22節

イエスを信じる以前の私たちは、罪に仕える奴隷でした。しかし、神が私たちを救うために現わしてくださった救いを知り、信じた時から、罪から解放され、神に仕えるしもべとなりました。
22節で「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり」ましたとパウロは教えています。キリストの救いを知って受け入れた私たちは、罪から解放され、神につながる、神に仕える者とされています。
しかし、どうでしょうか。キリストを信じているのですが、日々の生活の中で、罪に引きずられて罪の奴隷になっていること      はないでしょうか。どうして救われてもなお罪を犯してしまうのでしょうか。でも、神様は、信じる私たちを、もうすでに罪の奴隷から解放し、神に仕える奴隷となっていると見て、守っていてくださるのです。この恵みの中にありますから、自分が、キリストによって救われ神の奴隷とされていることを十分に自覚するようにというのです。自分を神の奴隷とされていると認めていくとき、聖なる生活の実を結んでいくのです。「聖なる生活」は、きよめ、聖化のことです。神の奴隷として歩むとき、神は私たちをきよめへと導いてくださるのです。自分を神のために生きるよう献げ、きよめて頂こう。