2022年7月3日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.27  アダムとキリスト(1)

 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。     

ローマの信徒への手紙 第5章12節

  私たち神様を信じる者は、キリストの救いによって罪赦され、死を恐れず、神のいのちに生かされていると信じています。しかし、私たちは人間ですから、いつか必ず死を迎えるという現実の中にあります。肉体はだんだん衰え、先が見えてきます。けれども、キリストの救いを頂いているので、死を恐れるのではなく、死を考える時もキリストの恵みの中で考え、死から解放されていることを覚えることができます。

今日の箇所ローマ5:12~14節で、パウロは、罪が世に入ったのは、一人の人による。最初の人アダムの犯した罪によると語ります。創造主はアダムに一つの戒めを与え、守るように命じていたのですが、アダムは、それを食べると神のように善悪を知るようになるというヘビの誘惑にそそのかされて神に逆らい、その責任を他人に擦り付けました。その結果、神から裁かれ、人間はそのような罪の性質を持つものになりました。その結果、罪によって死が入り込み、死がすべての人に及んでいます。人は罪のために死ななければなりません。アダムは、私たち人間の罪と死を表わす存在ですが、それだけでなく、「来るべき方」、キリストの救いを示す型でもあります。キリストの死によって私たちは罪と死から解放されるのです。

2022年6月26日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.26  神の愛

 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

                ローマの信徒への手紙 第5章6節

  前回、ローマ5:1~5で、神を信じて、その信仰を神様から義と認められた者は、神との間に平和を持ち、神の栄光にあずかる希望を誇りとしていると、パウロは語りました。そればかりでなく、苦難も誇りとします。苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む。この希望は私たちを欺くことはないと語りました。

今日は、その続きで、この希望は、神様が私たちに注がれる神の愛に根拠を持った希望であると明らかに示しています。

この希望が、私たちを欺くことがない。私たちを辱められることはない。それはなぜかと言うと、神の愛が私たちの心に注がれているからです。神様が私たちを愛してくださっていることが確かなのです。神さまの私たちへの愛がわかるように、私たちの心に注がれています。イエスを救い主と信じる時に聖霊が私たちの心に与えられます。この聖霊が、神様が私たちを愛してくださっている愛を、私たちの心にわかるように注いでくださっているのです。この神様が私たちを愛してくださっていることがどんなに確かなものであるかについて、パウロは、こう言います。キリストは、私たちが弱く、罪人であった時、私たちの代わりに死んでくださったと。

2022年6月19日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.25  義とされた者の祝福

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

                ローマの信徒への手紙 第5章1節

 

信仰生活には、何度も押さえようとしても、口をついて出てくる叫びがあります。自分が救われ生かされていることの喜びです。苦しいことがあっても、救われているという喜びです。ローマの信徒への手紙の中に、このような叫び声が何度か聞こえてきます。今日の箇所にもそのようなパウロの喜びの叫びが語られています。

パウロは、4章までを振り返り、「信仰によって義とされたのだから」と語っています。私たちは神に逆らい罪を犯して裁かれてもおかしくなかったのに、神は御子キリストを私たちの身代わりにして十字架で裁かれました。このキリストの救いの御業によって無償で私たちを義とされたのです。神との正しい関係にされたのです。キリストのなさった御業を私のためにしてくださったと信じる時、義とされるのです。このように信仰によって神と正しい関係にされるとき、私たちは神との間に平和を得ているのです。それまで神に背いてばかりの私たちは、神に対して敵対していたのですが、御子キリストの救いの御業によって神と和解させていただいたのです。神と平和な状態になったのです。私たちの心に平安、安心が与えられているのです。神との間に平和を頂いている祝福を今一度感謝しよう。