2022年12月11日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.50 喜びの知らせ

  天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。         

  ルカによる福音書第1章13節

 

いよいよクリスマスが近づいています。今日の主題は、救い主の誕生の前に、先駆者として、人々に悔い改めを促し救い主を迎える道備えをした洗礼者ヨハネの誕生です。

ヨハネの父は祭司ザカリア、母は祭司の系統のアロン家の娘の一人、エリサベトです。熱心に主に仕えた夫婦ですが、子どもはなく、年老いていました。ある時、ザカリアがエルサレムの神殿の聖所に一人入って、香をたき、祈っている時、天使が彼に「あなたの願いは聞き入れされた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」。という驚くべきことを聞きました。しかも、その子は、聖霊に満たされイスラエルの多くの人々に神である主のもとに立ち帰らせる務めをするとまで言われたのです。そのすごいことを言われても、ザカリアは理解できません。自分も妻も年老いていますと答えました。

その結果、ザカリアは口がきけなくなりました。でも、ずっとではなく、その喜びの知らせである、子が産まれるまでの間でした。その口がきけなくなっている間、ザカリアは、きっと自分の不信仰を悔い改め、主の言葉が実現するのを待っていたと思います。私たちも主の言葉を理解できず従えないことがあります。じっと主のみ言葉を信じて待とう。

2022年12月4日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.48 この聖書の言葉は今日実現した

 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

                  ルカによる福音書第4章21節 

 

旧約時代に、神が預言者によって語られた、神の思い、ご意思は、むなしく消えることなく、時を経て、神から遣わされた御子において実現したという神の真実が今日の箇所に示されています。

主イエスが故郷ナザレに来て、いつもとおり安息日に会堂に入り礼拝をささげられました。聖書を朗読するために席を立たれたとき、係から手渡された巻物(当時は神の言葉は巻物に記されていた)が旧約聖書のイザヤ書でした。それをお開きになった主イエスの目が留まったのが、イザヤ書61章1,2節の言葉でした。

それを読まれた後、イエスは席に座ると、会堂にいたすべての人の目が注目する中、こう言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。すなわち、イエスが読んだこのイザヤ書の言葉は、あなたがたが耳にした通りに、今日実現したと言われたのです。もっと丁寧に言うと、この言葉は、今日、この時、この場であなたがたにおいて実現したのです。そのように、イザヤが語った、「主が遣わされた」わたしという存在によって神の御業が起こるというこの言葉は、今日、実現したのです。この言葉の通りに、この主イエスにおいて、救いが現わされるのです。何という驚くべき宣言でしょう。

2022年11月27日 礼拝説教

きょうどう-2022年 No.48 主の来臨の希望

 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせ

る。彼は公平と正義をもってこの国を治める。

                     エレミヤ書 第33章15節

秋も深まり、早く暗くなってきました。夜の暗さは、今の時代の闇を象徴しているかのようです。世界各地での戦争や紛争、コロナ感染の拡がり、厳しい経済状況など不安なことがあふれています。そのような暗い現実だからこそ、確かな希望を持って生きたいと願います。

今日の主題は、主の来臨の希望です。深い絶望ともいえる状況の中にある希望です。昔、紀元前6百年頃、ユダ王国は大国バビロンに攻め込まれ、王も民も捕虜となってバビロンに連行されていました。

預言者エレミヤは、ゼデキヤ王の時代に、神の命によって彼らユダ王国の王と民の罪を指摘し、神の裁きを宣告しました。彼らが神に信頼せず、神に従わず、偶像にのめりこんだゆえに、神は彼らを裁かれ、打ち殺します。けれども、神は彼らを深く憐れまれ、その傷をいやし、彼らを立て直されます。ダビデ王のような正義の若枝(王)を起こし、その王が公平と正義をもって国を治めるのです。そのような恵みの約束を、エレミヤは語り始めました。

この恵みの約束は、イエス・キリストの来臨において成就し、神の義があらわされたのです。さらに、再臨のキリストがお出でになる時、確かな救いが成し遂げられます。その救いを待ち望みましょう。

2022年11月20日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.47 同胞のための悲しみ

わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリスト
から離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

                   ローマの信徒への手紙 第9章3節

使徒パウロは、ローマ書においてイエス・キリストによって人類に与えられる福音を解き明かしてきました。8章ではキリストを通して人類に注がれた神の愛が力強く語られました。ところが、9章になると、これまでの燃え上がるような喜びの調べが急に深い悲しみと痛みの告白に変わっています。それは、神の愛と救いが全世界に与えられ、人々が喜びをもって受け入れているのに、自分の所属するユダヤの人たちがそれを拒んで、キリストを受け入れず、救いにあずかっていない状況があったからです。
パウロはキリストの福音に触れて、先祖伝来の神の約束が今や成就したと感じ、この喜びの知らせを同胞に宣べ伝えようとしました。ところが、同胞のユダヤ人たちがこれを拒否し、キリストを拒んだのです。それで、パウロはユダヤ人たちの反対の強いところでは、市街地や異邦人の家を用いて異邦人伝道に向かうようになりました。それで人々の中には、パウロがユダヤ人でありながら、ユダヤ人を顧みず、伝道をあきらめ、ただ異邦人だけのために働いているという非難がユダヤ人たちからなされたのです。それに対して、パウロは、自分は同胞ユダヤ人の救われるためならば、自分が救いから締め出されてもかまわないとさえ考えていますと告白するのです。それほどに同胞が救われるように真剣に祈っているのです。