2022年11月27日 礼拝説教

きょうどう-2022年 No.48 主の来臨の希望

 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせ

る。彼は公平と正義をもってこの国を治める。

                     エレミヤ書 第33章15節

秋も深まり、早く暗くなってきました。夜の暗さは、今の時代の闇を象徴しているかのようです。世界各地での戦争や紛争、コロナ感染の拡がり、厳しい経済状況など不安なことがあふれています。そのような暗い現実だからこそ、確かな希望を持って生きたいと願います。

今日の主題は、主の来臨の希望です。深い絶望ともいえる状況の中にある希望です。昔、紀元前6百年頃、ユダ王国は大国バビロンに攻め込まれ、王も民も捕虜となってバビロンに連行されていました。

預言者エレミヤは、ゼデキヤ王の時代に、神の命によって彼らユダ王国の王と民の罪を指摘し、神の裁きを宣告しました。彼らが神に信頼せず、神に従わず、偶像にのめりこんだゆえに、神は彼らを裁かれ、打ち殺します。けれども、神は彼らを深く憐れまれ、その傷をいやし、彼らを立て直されます。ダビデ王のような正義の若枝(王)を起こし、その王が公平と正義をもって国を治めるのです。そのような恵みの約束を、エレミヤは語り始めました。

この恵みの約束は、イエス・キリストの来臨において成就し、神の義があらわされたのです。さらに、再臨のキリストがお出でになる時、確かな救いが成し遂げられます。その救いを待ち望みましょう。

2022年11月20日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.47 同胞のための悲しみ

わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリスト
から離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

                   ローマの信徒への手紙 第9章3節

使徒パウロは、ローマ書においてイエス・キリストによって人類に与えられる福音を解き明かしてきました。8章ではキリストを通して人類に注がれた神の愛が力強く語られました。ところが、9章になると、これまでの燃え上がるような喜びの調べが急に深い悲しみと痛みの告白に変わっています。それは、神の愛と救いが全世界に与えられ、人々が喜びをもって受け入れているのに、自分の所属するユダヤの人たちがそれを拒んで、キリストを受け入れず、救いにあずかっていない状況があったからです。
パウロはキリストの福音に触れて、先祖伝来の神の約束が今や成就したと感じ、この喜びの知らせを同胞に宣べ伝えようとしました。ところが、同胞のユダヤ人たちがこれを拒否し、キリストを拒んだのです。それで、パウロはユダヤ人たちの反対の強いところでは、市街地や異邦人の家を用いて異邦人伝道に向かうようになりました。それで人々の中には、パウロがユダヤ人でありながら、ユダヤ人を顧みず、伝道をあきらめ、ただ異邦人だけのために働いているという非難がユダヤ人たちからなされたのです。それに対して、パウロは、自分は同胞ユダヤ人の救われるためならば、自分が救いから締め出されてもかまわないとさえ考えていますと告白するのです。それほどに同胞が救われるように真剣に祈っているのです。

2022年11月13日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.46 神の愛の勝利

 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを

愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

          ローマの信徒への手紙 第8章37節    

 「わたしたちは…輝かしい勝利を収めています」。ここでパウロの語る勝利とはどのような勝利なのでしょうか。苦難のなかで、他者のために生き、かつ死ぬこと、自分を犠牲にし、他者に与えてしまう愛の勝利です。その愛の勝利は、主イエス・キリストの生涯とその御業に見られ、そして主イエスを信じる者の生涯にも見られる勝利です。

パウロの言う勝利は、「これらすべてのことにおいて」、すなわち、極めて困難な状況においての勝利です。35節にある「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」という厳しい苦難です。これらは、パウロが実際に体験していた苦難であり、今も体験している状況でした。

どんな状況か36節で詩編44編23節を引用して説明しています。この言葉は、イスラエルの民が周囲の民から攻撃を受けて苦しんでいるのは、主なる神のゆえに、一日中殺されていると苦難を訴えています。その言葉のように、パウロは、自分たちキリストを信じる者も今、主のために苦しんでいる。けれども、私たちはキリストの愛から決して引き離されることはない。それは、キリストが、私たちを愛し、ご自分を犠牲にして私たちを罪から救い出してくださったからです。このように私たちを愛してくださるお方によって私たちは勝利しているのです。

2022年11月6日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.45 神は私たちの味方

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわ

たしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

          ローマの信徒への手紙 第8章31節       

 「神が私たちの味方である」。これが、神が私たちに与えてくださる救いの事実を示す言い方です。ですが、パウロは、「もし神がわたしたちの味方であるならば」と、何か控えめに、私たちに向けて、あなたは、もし神を自分の味方であると認めているならば、と問いかけています。

神が私たちの味方ではない場合が、あるのでしょうか。いいえ、神はいつも私たちの味方です。ですが、神が私たちの味方ではなかった時がありました。それは、どんな時かと言うと、神が私たちの味方でなかったのではなく、私たちが神の敵になっていた時です。私たちが、神を敵のように思って、神と闘っていた時です。そういう私たちでしたのに、神は御子をこの世に遣わして、私たち人間をその罪から救い出すために、私たちに対する罰を、御子に負わせて、この御子を裁いて、私たちを救い出してくださいました。神の方からこの御子キリストを犠牲にして神との和解を与えてくださいました。

だから、神は私たちの味方です。神が私たちと共にいてくださいます。だから、私たちを攻撃する者たちが襲って来ても、私たちは守られるのです。私たちを救うために御子を惜しまず死に渡された神が、御子と共にすべてのものを賜るほどに私たちを愛してくださっているからです。