2023年4月16日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.16 共に歩まれる復活の主

話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
                                                                                   ルカによる福音書第24章15節

 

二人の弟子がエルサレムから約11キロ離れたエマオという町に向かって歩きながら、最近起こった、イエスが十字架に付けられて、なくなられたことを話し合っていました。
その時、彼らのそばにいつのまにか、見知らぬ旅人が近づき、彼らと一緒に歩き始められたのです。実は、その旅人は主イエスでした。しかし、この時彼らの目が遮られていて主イエスだとは分からなかったのです。なぜ二人の弟子は主イエスが分からなかったのでしょうか。
主イエスが死んでしまわれたという深い悲しみのため、復活された主イエスが現れていたのに分からなかったのです。しかも、復活の主イエスのお姿があまりにも変貌していたからと考えられます。
旅人から、何を話しているのかを尋ねられて、彼らは主イエスが十字架に付けられて死なれたこと、その三日目の朝、墓に主イエスの遺体が見つからなかったこと、天使が現れて「イエスは生きておられる」と告げたが、彼らは主イエスが復活されたとは信じられなかったのです。なおも悲しみの中にありました。
その彼らの気持ちを知った主イエスは、聖書全体にわたってご自分について書いてあることを説明されたのです。そのとき、彼らの心は温められ、少しずつ心が開かれ、信じる者になっていったのです。

2023年4月9日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.15  復活なさったのだ

中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

ルカによる福音書第24章3、4節

 主イエスが十字架にかけられて死んでしまわれたことで絶望的な思いになっていた人たちがいました。それは主イエスについて来ていた女性の弟子たちでした。

彼女は週の初めの日、すなわち、日曜日の明け方早く、準備していた香油をもって主イエスの遺体が納めてある墓に行きました。せめて主イエスのお体に香油を塗ってさしあげたと思ったからです。

墓に近づくと、墓の入口が開いていたのです。思わず中をのぞくと、なんと、主イエスの遺体がどこにも見当たらないので、途方に暮れてしまいました。当然あるはずと思っていた主イエスのお身体がないのです。もうどうしてよいか、わからなくなって困ってしまいました。ますます悲しみがあふれたのです。

しかし、その彼女に大きな慰めと希望の光が輝いたのです。輝く衣を着た二人の人がそばに現れて「どうしてあなたがたは、イエスを捜すのに、まるで死んだ人を探すかのように探すのですか。」と語りかけてきました。イエスはもう死んでしまった、もういないと思っている彼女たちに、鋭く語りかける言葉でした。そして彼らは「ここにはおられない。復活なさったのだ。」と語りかけてきたのです。

2023年4月2日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.14  十字架の言葉

 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

ルカによる福音書第23章34節

 

 今日から受難週です。主イエス・キリストの味わわれた苦しみと十字架の死に、私たちの思いを留めていきたいと思います。

主イエスが宗教指導者たちに捕らえられ、不当な尋問を受け、翌朝には彼らはイエスを総督ピラトに民衆を惑わした重罪人と訴えました。ピラトにはイエスから死刑にあたる罪を見出せません。なのに、彼らはイエスを十字架に付けるようにピラトに大声で要求し続け、ついにピラトはその要求を受け入れイエスを死刑に決めたのです。このような出来事は悲しく悲惨なことにしか思えませんが、私たち人類の代わりに受けてくださったことであるゆえに、私たちにはありがたい救いなのです。

主イエスが十字架に付けられた時、二人の犯罪人も一緒でした。十字架上で主イエスが語られた言葉から、主イエスの思いを聞き取りたいと思います。34節「父よ、彼らをお赦しください」。ご自分の苦しみの中で、神を「父よ」と呼びかけられ、神の前でご自分の心の中で一番思っておられたことが「彼ら」のことでした。彼らとは、イエスを十字架に付けるように要求した宗教指導者たちであり、イエスを直接十字架に付けた兵士でしょう。彼らをイエスは恨むのではなく、心配し、彼らの罪が神に赦されるように祈られたのです。赦しを懇願されたのです。

2023年3月26日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.13  神の救いのご計画

  そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』

ルカによる福音書第20章13節

 

 神は私たち人間を救うために、そのひとり子をこの世に送り、十字架に付けていのちを与えるほどに私たちを愛し救ってくださいました。このような神の救いについて、主イエスは、ご自分が十字架に付けられる三日前に民衆にたとえをもって教えられました。それが今日の箇所です

このたとえは、ある人がぶどう園を作りこれを農夫たちに貸して長い旅に出たことから始まります。そして収穫の時になったので、持ち主は、収穫を納めさせるために僕たちを遣わしました。しかし、農夫たちは僕たちを袋だたきにして何も持たせないで追い返しました。この意味は、神から人間は良きものを活用するように託されていて、収穫の時にその一部を神にお返しすべきものなのです。しかし、私たち人間はこの農夫たちのように、返さないで自分のものと思ってしまうのです。

しかし、ぶどう園の主人が愛する息子を送ったのです。けれども、農夫たちはその息子を殺してしまいました。このように、主イエスは語られつつ、ご自分が神から遣わされた神の御子であるご自分に対して、できれば、殺さないでほしいと願っておられたでしょう。しかし、ご自分が殺されることも覚悟しておられたと思います。このたとえの通りのことがイエスの身の上に起こり、神の救いが成し遂げられていくのです。