2023年5月14日 M・フランシス著「聖霊に満たされてから」の引用

きょうどう-2023年 No.20  イエスの歩まれた従順の道

 

神を愛する多くの人々が、信仰によって聖霊を内にいただきながら、落ち着きのない生活をしているのが現状です。不当に非難されたり、中傷されたりするとイライラしてくるのです。…疑い、迷い…ついに自分の人間的な経験によってものごとを判断し…暮らすようになります。

愛する皆さん。多くの人々がこの点でつまずくのは無理もないことですが、聖霊は私たちを人間として完全な者にするわけでもないのです。正直に言って、多くの信者は、聖霊が神の目でご覧になるような「自我の醜い姿」を私たちに示そうと望んでおられることを知らないと思います。だから人々は醜い自我をそのままにして、せっかくイエス・キリストの十字架の死にあわそうとする神のみこころに従いません。

さて、死にあわされる道とは、おのれを低くする従順の道のことです。イエスの歩まれた道は、従順に十字架の死へ進む道でありました。イエスはご自身を低くして、神の御子にふさわしくない人間の姿をとられました。これはイエスが…進んで創られたものの姿をとって、私たちのところに来てくださったということです。これは非常に意味の深いことで、私たちには知り尽くすことはできませんが、さらに主は、私たちに仕える者として…最低の立場に身を置く人間になられました。こうして十字架の死に至るまで従順であられたのです。…主が私たちに望んでおられるのは…このような態度ではないでしょうか。M・フランシス著「聖霊に満たされてから」の引用

2023年5月7日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.19  友と呼んでくださる主

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。 

                    ヨハネによる福音書第15章15節

 私たちは、キリストを主と信じ、キリストの尊い血によって買い取られた者たちです。すなわち、キリストの奴隷です。罪の奴隷であった者でしたが、キリストの血によって買い取っていただき、キリストの奴隷となった者たちです。しかし、主イエスはこう言われました。あなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶと言われました。何という特権でしょうか。キリストが「わたしの友」と呼んでくださる間柄に私たちを入れてくださったのです。

昔アブラハムは「神の友」と呼ばれました。「神の友」と呼ばれたアブラハムに対して、神はこう言われました。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」(創世記18:17)神はアブラハムにご自分のしようとしておられるご計画を示されたのです。

そのように、私たちキリスト者にも主イエスは「友」と呼んでくださいます。ということは、父なる神から聞いたことを皆私たちに知らされるのです。主イエスは、これからなさろうとしておられるすべてのご計画、御心を私たちに示してくださるのです。主イエスは私たちのために命を捨てて私たちを愛してくださいました。それゆえ、私たちは、主の御心をいつでも知ることができるのです。

2023年4月30日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.18  命のパンであるキリスト

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

                           ヨハネによる福音書第6章35節

 

主イエスの語られた「わたしが命のパンである」という言い方は、何とも大胆な言い方ではないでしょうか。わたしが命のパンを与えると言われたのではありません。命のパンを用意しますと言われたのでもありません。わたしそのものが命のパンであると言われたのです。

パンと言うと、私たち人間の健康を保たせるために欠かせない食べ物です。主イエスはどういう意味でこう言われたのでしょうか。それは、ご自分が天の父なる神の独り子であり、その神から遣わされて人間となって共に歩んでいる者である。罪深い人間を救うために、神の御心に従って、神のいのちを与える者だという意味でこう言われたのです。

それに続く主イエスの言葉がとても重要なことになります。「わたしのもとにくる者」と言われました。その意味は「わたしを信じる者」と言うことと同じ意味です。心を込めて主イエスの御前に出ることであり、主イエスを信じることです。主イエスを信じ受け入れるとき、私たちは飢えることがなく、渇くことがないのです。私たちの日頃食べるパンは腹一杯食べてもいつか空腹になります。しかし、命のパンそのものである主イエスを私たちが信じる時、主イエスの命に満たされ、喜びと感謝をもって生きることができるのです。

2023年4月23日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.17  まさしくわたしだ

こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

                            ルカによる福音書第24章40節

 

先週、悲しみながらエマオに向かう二人の弟子に見知らぬ人(復活された主イエス)が一緒に歩かれて、旧約聖書全体からメシアの苦難と栄光を教えられ、復活の主ご自身を現されたので、彼らは、イエスが復活されたと信じたということを学びました。

喜んでエルサレムに引き返した彼らを含めて弟子たちが家の中で話し合っていた時、彼らの真ん中に主イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。シャロームというあいさつの言葉というだけでなく、彼らに主イエスの平安をお与えになりました。

しかし、彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったのです。その彼らに対し、主イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」(38,39節)と言って、ご自分の手と足をお見せになられました。主イエスの両手、両足には、十字架刑で傷ついた生々しい釘の傷跡があったことでしょう。それを見た弟子たちは、この方が間違いなくイエスと分かり喜びに溢れました。喜びのあまりまだ信じられずに不思議に思っていると、主イエスは彼らの目の前で、差し出された焼いた魚を食べられました。そのようにして主イエスはご自分が亡霊ではなく、からだをもって復活されたことを示してくださったのです。