2023年10月22日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.43  主にふさわしい者

  わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。           

マタイによる福音書 第10章37節

 

このみことばに接するとき、多くの人々は戸惑いを感じるでしょう。主イエスの語られた言葉としてはあまりにも突飛と思われるからです。

この主イエスのみ言葉の背後には、主イエスご自身の血みどろの体験があったのです。主イエスはユダヤ教的な家庭の中で生まれ育ち、神に仕えることと同様に両親に仕えられました。しかし、救い主としてみ父に従って歩み始めたとき、神に仕えることと親に仕えることが必ずしも一致しなくなりました。父なる神の御心に従って歩もうとされるとき、それはさらに著しくなりました。主イエスの母や兄弟も主イエスを理解できなくなっていき、主イエスは大変苦悩されたと思います。そのような肉親の情愛を経験された主イエスが「自分の家族の者が敵となる」と語られるのです。このみ言葉の一語一語に主イエスの苦悩を見ます。

信仰の道を進もうと決心しても、肉親の反対にあって決心が揺らぐ場合もあります。しかし、ここも主イエスが体験され、主イエスが通られた道です。肉親の情愛は、突き詰めれば自己中心的な愛です。それが応えられないと、激しい怒りと憎悪に変わります。このような情愛を乗り越えてキリストに従うことが求められています。家族の愛はありがたいですが、主イエスの救いはもっと大事ですから、従いましょう。

2023年10月15日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.42 見えないものに目を注ぐ
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。 見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。        

                          コリントの信徒への手紙 二 第4章18節

パウロは、自分は見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐと言います。「見えるもの」とは、目に見える現実です。それらは過ぎ去るものです。世に生きる私たちは、その目に見えるものばかり目を注ぎやすいものです。そのために目に見えることばかり気になって不安になり、悩み苦しみます。信仰者も、そのような目に見える現実の解決を求めて祈っています。
パウロは、見えないものに目を注ぐと言いました。信仰の目をもって見えないものを求めるということです。それはどういうことかというと、目に見えないもの、すなわち、神ご自身であり、霊的真理であり、永遠の命であり、天の御国です。それらを求めるというのです。永遠に存続するからです。
目に見えない神様がおられて、このお方が私たちを愛し守っていてくださるからです。神の独り子イエス・キリストを通して私たちを救い、新しく生かしてくださるからです。私たちの罪を赦し、永遠の命に生かしてくださるからです。
ですから、私たちは目に見える現実の中に、目に見えるものばかりに目を留めるのではなく、目を永遠の神に注いでいくのです。

2023年10月8日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.41  恐れるな

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。              

マタイによる福音書 第10章26節

 

イエス様は「恐れるな(恐れることはない)」と3回(26、28、31節)語られました。私たちは色んなことに不安や恐れを感じて過ごしています。人の目を恐れて生活しています。しかし、イエス様は本当に恐れなければならないものを恐れる時には、人を恐れることはないと教えておられます。

恐れる必要のない理由の一つは、「弟子は師にまさるものではない」ことです。師匠であるイエス様がベルゼブル(悪魔の親分)と呼ばれているからには、その弟子が社会からひどい評価を受けるのは当然だとイエス様は言われます。イエス様はこの世で犯罪人として十字架に付けられ、その十字架によって私たちを救ってくださいました。そのイエス様の苦しみは私たちのためであったことを覚えて感謝すべきです。

恐れる必要のない第二の理由は、「覆われているもので現わされないものはない」ことです。この言葉は、陰でこそこそ行っていることはいつか露わになる意味でした。イエス様が教えられた意味は、人々から反対されたり誤解されながらも誠実に行っているなら、やがて明らかになって、分かってもらえる時が来るというのです。イエス様がひそかに弟子たち(私たち)に教えられたことを、その福音の力を信じ伝えよう。