2012年3月18日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」             

フィリピ3章18節

説教主題「十字架に敵対するな」

  パウロには激情的な面もありました。しかし激情にかられ、冷静な判断を失ってしまうことは無かったはずです。そのパウロが「涙ながらに」訴えようとするのですから、これから述べるのは信仰者にとってよほど重要な内容に違いありません。

  「キリストの十字架に敵対して歩む」人々とは どのような人たちのことでしょうか。フィリピのキリスト者たちにパウロはこの手紙を書いています。十字架への敵対者が別の宗教や福音と異なる教えを信奉している人々とは考えにくいのです。福音によって生かされているはずの人々、つまり教会の信仰者たちの中にこのような人々が多くいるというのです。果たしてそのようなことがあるのでしょうか?

  キリスト者であれば、誰でも「主イエスの十字架による救いの恵みによって生きる」はずです。それは今更ながら、涙ながらに重要性を強調しなければならないとは思えません。ところが根本的なところは意外と盲点ですっぽり欠落してしまうものです。その人たちは口でキリストの十字架はいらないとまでは言わないでしょう。しかし、その人の生活ぶりを見ていると十字架はいらないと言っているのと同じで、それが「十字架に敵対している」ことなのです。キリストの救いは半分くらいは有効だけれど、残りの足りない部分を自分の良い行いで埋め合わせてあげなければならないと考えます。それは誤りです。

「キリストによる救いこそ、すべて!」パウロはこれに徹するのです。

2012年3月11日 礼拝説教要旨

主題聖句 「皆一緒にわたしに倣うものとなりなさい」

 フィリピ3章17節

説教主題「キリストによって生きる

   パウロは自分に自信があり、偉い信仰者だと思い込んでいるので「わたしに倣え」といっているのでしょうか。この「ものの言い方」は高慢な鼻持ちならないいやらしさを感じて、反発を感じる方もおられるかもしれません。「パウロ先生!あなたはそれほどお偉いの?」と皮肉のひとつも言いたくなります。
しかし、「自分を誇るのではなく、主キリストを誇れ」と常々言ってきたパウロが自分を誇るなどとは考えられません。キリスト者は神の前の謙遜さを求められます。自分は救われる資格も価値も無いと思っているはずです。「私は立派だから、私に見倣え」と言っていないことは確かです。それでは何を見倣えといっているのでしょうか?
パウロはコリントの信徒への手紙一 第11章1節でも「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と述べています。パウロの何に倣えというのでしょうか。パウロが主イエス・キリストに倣っているその姿勢です。煎じ詰めれば、「キリスト者はすべてキリストに倣って生きよ」ということなのです。当たり前の事かもしれません。しかし、いきなり「キリストに倣え」と言われると気後れする人もいるでしょう。そこでパウロは次のように言うのです。「私のように不完全ながら、キリストに従おうとしているものがいます。皆さんと同じ悩みを抱えながら戦っている私なら真似しやすいでしょう?」…このように自分の身を晒しつつ、信仰の仲間の前にキリストに従う見本として我が身を差し出しているのです。

2012年3月4日 礼拝説教要旨

主題聖句 「あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」                 

フィリピ3章15

説教主題「到達したところに基づいて」

   パウロは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」ただひとつのことに専心すると申しました。(第3章13節)この生き方は一面、純粋でひたむきと言えます。しかし、ちょっと落ち着いて考え直してみると、「一本調子で単純」、「勢いだけで、回りの状況全体が見えていない。」と指摘することもできます。

   しかし、ここは世間一般で言われている「前向きの生き方」を強調しているのではありません。キリスト者は自分が理想を追いかけ、グイグイ前に向かって生きることだけを求めません。神の守りと導きとを信じ、神の救いを確信します。そうしてはじめて神に喜ばれる生き方ができるのです。

   パウロはハッキリ自分の生き方を打ち出す一方で、冒頭の御言葉のように、信仰者の仲間が別の考えを持つことを許容します。同じ救いに与っているキリスト者の間でも「ずいぶん考えが違うな」と感じることがあります。おそらく大きな原因のひとつは成熟の度合いの違いでしょう。しかし、この人が成熟した大人で、あの人が成長過程にある子供だなどと誰も決めることはできません。みんな不十分で未発達です。しかし、信仰を持った立派な人なら、自分のことを今生まれたばかりの幼子のような未熟なものだと謙遜に認めるはずです。…そのことを自覚するなら一層信仰生活に励むでしょう。大人なら、そう考えるのではないですか?…とパウロは私たちに問いかけ、挑戦しているのです。