2012年10月14日 礼拝説教要旨

「ヨハネと主イエス」

 

ルカによる福音書 第3章15-20節

 

政所邦明牧師

 

主題聖句:「ヨハネは…罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」         

ルカによる福音書第3章3節

 

バプテスマのヨハネがヨルダン川沿いの地方で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた頃、民衆はメシア(救い主)を待ち望んでおりました。そしてこのヨハネが救い主かもしれないと心の中で思っておりました。(同福音書3章15節以下)そのこころを見通すかのように「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」とヨハネは申します。このあと、主イエスはヨハネのもとに来て、民衆に紛れ、その中に埋もれるようにして洗礼をお受けになります。

ヨハネは自分と“優れた方”の違いを述べます。―自分は水で、その方は聖霊と火で洗礼を授ける―この点が違います。水による洗礼はこの御方の聖霊と火による洗礼によって、完成を見ると言いたいのでしょう。

「罪の赦しを得させる悔い改め」という言葉はルカによる福音書の終わりの方でもう一度出てきます。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ第24章47節)準備のための「悔い改めの洗礼」ではなく、「悔い改め」そのものが起こります。それではその「悔い改め」はどのようにして起こるのでしょうか。苦しみを受け、3日目に死者の中から復活するメシアの名によるのです。(24:26)全存在が神の方に向き、完全に神に支配されて生き始めるのが“悔い改め”です。その実現のために神の子の十字架と復活という大きな御業があったことを改めて思わされます。聖霊と火による洗礼の実態は主イエス・キリストの救いの業です。神のお働きが人に真実の悔い改めを促し、造りだすのです。

2012年10月7日 礼拝説教要旨

手ずから書いた手紙

政所邦明牧師

 

フィリピの信徒への手紙 第4章21-22節 

主題聖句:「主イエス・キリストの恵が、あなたがたの霊と共にあるように。」         

フィリピの信徒への手紙 第4章22節 

        

 パウロはフィリピの信徒への手紙を書き終えるに当たり、まことに要領よく、簡潔な挨拶と祝福の祈りで締めくくります。一説ではパウロは目の病気を患っていたと言われます。これまでの件(くだり)は身の回りの世話をしてくれる誰かに口述筆記をして貰ったのかもしれません。英文タイプが何十年も前から普及していた欧米でも、手紙の最後は自筆でサインします。パウロも最後は自筆で書いたのではないでしょうか。

外交辞令に陥りやすい挨拶の部分にもパウロの信仰が現れます。私たちはよく「あなたのために祈っています」と書きます。そう認め(したため)ながら、相手のためにどれほど祈ったであろうかと反省させられるのです。…「本当に祈っている人は恩着せがましく『祈っています』と軽々しく言わないのではないだろうか」との思いが頭をよぎります。… 祈りにおいてこそ「不言実行」が求められるのです。

「偽善者たちは人に見てもらおうと、…祈りたがる。しかしあなたがたは彼らのまねをしてはならない」と主イエスは言われました。「むしろ隠れたところにおられるあなたがたの父に祈りなさい」と勧められます。[マタイ第6章5~8節]どんな内容を何時、どのように祈るかはその人と神との間の秘密です。親子であっても、配偶者であっても立ち入ることはできません。神に対する絶対信頼があり、この御方さえ知っておられればよいし、一番確かだと思っているからです。結びのさりげない一行にパウロの深い祈りを垣間見る思いがします。見せようとしたのではなくほとばしり出たのです。

2012年9月23日 礼拝説教要旨

 アーメン

 

政所邦明牧師

 

フィリピの信徒への手紙 第4章20節

 

主題聖句:「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、  

アーメン。」        

フィリピの信徒への手紙 第4章20節

         

 信仰をお持ちでない方も「アーメン」という言葉はおそらく聞かれたことがあると思います。わたしたちがキリスト者と分かると「あなたはアーメンか?」と聞かれます。そして、その人は胸の前で十字を切る真似をします。しかし、キリスト教の代名詞のように使われるこの「アーメン」は本当の意味をよく理解されていないのではないでしょうか。同じ宗教団体に属する者同士が、互いの気分を盛り上げるために使う“合言葉”と誤解されているなら、まことに残念なことです。

「アーメン」はもともと「本当です」とか「真実です」とかの意味です。祈りの最後に付けて、「真心からそのように信じ、同意する」気持ちを表します。しかし、それ以外に「アーメンである方、誠実で真実な証人…」(ヨハネの黙示録第3章14節)のように形容詞としての用い方もあります。アーメンである方とはイエス・キリストで、この御方こそご真実で、すべての人からほめたたえられるお方だと言うのです。「アーメン、ハレルヤ」と並べられる場合もあります。「ハレルヤ」と言うのが「神がほめたたえられますように!」という意味ですから、「アーメン」も同様に神を称える心を持って「そのとおり、みんなから讃美を受けられますように」との思いが込められます。イエス・キリストこそ真実なお方です。神は罪深い人間を救うために神の独り子を十字架におつけになる方法を取られました。そのなさりかたに、御子は心から「アーメン」と言って同意され、従われました。このようなご真実の故にキリストこそ「アーメン」、誠に信頼出来るお方なのです。