2014年4月13日 礼拝説教要旨

ダビデの子にホサナ

 

政所 邦明 牧師

 

イザヤ書 第53章1-12節

マタイによる福音書 第20章29節-第21章11節

 

主題聖句:「「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に…」   

マタイによる福音書 第21章9節

                                    

受難節を過ごしながら、主イエスが十字架に向かって進んでいかれるお姿を思い浮かべています。「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(テモテへの第二の手紙 第2章8節 口語訳)とパウロ先生は言われました。救いの良き知らせを心の中に深く受け止めようとすれば、イエス・キリストのことをいつも“思い巡らして”いなければなりません。受難節に限らず、四六時中黙想することを求められています。しかし、とりわけこの季節に、主の十字架に思いを集中するのです。

先週の箇所では、エブス人の住んでいたエルサレムの町をダビデが占領しました。それは神がエルサレムを支配され、全世界の王となられたことを意味すると申し上げました。神が王の位にお付きになったのです。

 

過越しの祭りの時、エルサレムの町に主イエスはロバに乗って入られました。ロバは“柔和な”動物の象徴です。“柔和な王”をお乗せするのにふさわしい動物と言えるでしょう。神が王として、エルサレムにおいでになります。十字架によって人間の罪を償い、罪から救って下さるためです。ロバの姿はイエス・キリストのお姿と重なります。罪の重荷を担うために神の御心に従って下さる “苦難の僕”としてのお姿がよく現れています。「ダビデの子にホサナ」とは「ダビデの子よ、救ってください」と呼びかけることです。真の王であり、救い主を迎えるふさわしい呼びかけと言えるでしょう。そのようなお方が今日わたしたちのところへ来てくださるのです。

2014年4月6日 礼拝説教要旨

「 まことの王 」

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記 下 第6章12-23節

マタイによる福音書 第2章1-12節

 

主題聖句:「主の箱がダビデの町に着いたとき…」  

サムエル記下 第6章16節

                                    

サウルに追いかけられてダビデが逃げまわっていた時も、イスラエルとペリシテ軍との戦いは続いておりました。再び戦闘が起こり、サウルもヨナタンも戦死してしまいます。全イスラエルは新しいリーダーを求めて、ダビデに白羽の矢を立てます。ヘブロンという町で、ダビデは王に就任しました。

 

しかし、神は新しい都を準備し、外国人のエブス人が住んでいた町エルサレムを選んでおられたのです。戦闘の末、ダビデはこの要害の町を陥れます。そして、エルサレムは「ダビデの町」と呼ばれるようになりました。

 

ルカによる福音書のキリスト誕生の記述に従えば、「ダビデの町」は出身地ベツレヘムです。ところがサムエル記下によるとエルサレムもまた「ダビデの町」なのです。この6章には神の臨在を表す「神の箱」がエルサレムに運ばれ、安置される経緯が書かれています。この町は確かに戦いに勝って、ダビデが手に入れた都です。しかし、神の箱が安置されたのは“神がこの町を占領された”ことを意味するのではないでしょうか。ダビデもその家来も神に用いられたに過ぎません。「聖なる山シオンでわたしは自ら、王を即位させた。」(詩編第2編6節)ダビデがエルサレムの主(あるじ)になっただけでなく、神がすべての真の王になられたことを表しているのです。

 

4月13日から受難週が始まります。エルサレムは主イエスが過越しの祭りの犠牲として十字架にかかり、甦られた場所です。①エルサレム占領と②神の箱の安置はエルサレムが、“どのような意味で神の都になるのか”を予め示しています。十字架で罪深い者を救ってくださることによって、神とその独り子イエス・キリストはわたしたちの真の王となってくださるのです。

 

2014年3月30日 礼拝説教要旨

 

「罪人が義とされる」

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記上 第24章1-23節

マタイによる福音書 第5章43-48節

 

主題聖句:「お前はわたしより正しい。…主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。」             

 (サムエル記上 第24章18節) 

                                   

ダビデを追いかけてきたサウルが用をたすために洞窟に入ってきました。同じ場所にダビデとその仲間がなりを潜めています。サウルを一思いに殺してしまう絶好の機会が訪れました。しかし、神がお立てになった王を手にかけることはできません。ダビデは思いとどまります。

 

洞窟を出たサウルを追いかけて、ダビデも外に出ます。そして洞窟の中で起こった一部始終を打ち明けます。ダビデの信仰と思いとはサウルにも伝わり、心を打たれます。そして、口をついて出たのが上記のみ言葉でした。

 

「お前はわたしより正しい」とまず言い、その次に「ダビデの善意が分かった」とサウルは続けました。この順番に注目します。何気なく言ったので、深い意味を意識してはいなかったかもしれません。しかし、神がサウルを通してわたしたち信仰者に大切な内容を語っておられると思います。

 

わたしたちの礼拝ではサムエル記のダビデの姿に重ねて、イエス・キリストのお姿を読み取っています。ダビデは確かに正しいのです。その正しさは嫉妬に狂い、理不尽な扱いをダビデにしてきたサウルを赦す正しさです。赦して救おうといたします。

 

受難節(3月5日~4月19日)に入って主イエスの十字架を思いめぐらしています。人間の罪に対して神は厳しく臨まれます。キリストの死によって人間の罪を処罰されるのです。罪と妥協のできない神の正しさを全世界に明らかにするのが目的ではありません。「罪深いものを赦して救う神の正しさ」を示されるのです。それこそが神の義です。サウルに対するダビデの振る舞いの中に、イエス・キリストの十字架の赦しを先取りして見る思いがします。