2014年5月11日 礼拝説教要旨

神に対する罪

 

政所 邦明牧師

 

サムエル記上 第12章1-15節

ルカによる福音書 第15章11-19節

 

主題聖句:「ナタンはダビデに向かって言った。『その男はあなただ。…なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。…』」  

サムエル記下第12章7,9節

 

ダビデはウリヤの妻を寝とり、そればかりか忠実な部下ウリヤを殺させてしまいます。一つの罪を隠すために、さらに罪を重ねてゆきます。良心の疼き(うずき)を少しも感じることなく、罪を隠し通せるとでも思ったのでしょうか。神は侮られるようなお方ではありません。ダビデが悔い改めるようにナタンをお遣わしになりました。

 

一つの話をナタンは始めます。たくさんの羊を持っている男が来客のもてなしのために自分の羊ではなく、別の貧しい男がだいじに飼っていた一匹の羊を取り上げて、料理した話です。実際にあったのか、つくり話なのか、わかりません。一見ダビデの行なったこととは直接は結びつかないように思えます。 “自分のことを棚に上げ”、ナタンの話の中に出てくる富裕な男の非道な振る舞いにダビデは怒ります。「そんな無慈悲なことをする人間は死罪だ!」と思わず言ってしまいます。「ダビデのことだとわからないように遠回しに」ナタンが話したという面もあるでしょう。しかし、それよりも、だれでも自分の行動には無感覚になり、分らなくなるということでしょう。

 

ダビデの反応に対して「その男こそ、あなただ!」とナタンは切り返します。ダビデは自分の罪を知らなかったのではなく、認めたくなかったのです。しかし、王としての体面にしがみつくことなく「わたしは主に罪を犯した」(第12章13節)と悔い改めました。罪を犯した後の処理とは、言い逃れをすることではなく、罪を素直に認め、神に詫びることなのです。

2014年5月4日 礼拝説教要旨

「 罪の深さ 」

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記下 第12章1-15節前半

ルカ福音書 第15章11-19節

 

「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」      

サムエル記下 第11章15節

                                    

これまでダビデの生涯をごいっしょに学んできました。主君サウルから妬まれ、理不尽な扱いを受けながらも、忍従する理想的な信仰者の姿を読んできたのです。そして国内をやっと平定し、外国との戦いに備え、安定した時期がダビデに訪れたかに思えました。しかし、11章には忌まわしいダビデの犯罪が描かれています。部下ウリヤの妻を寝とり、しかも忠実なウリヤを外国との戦線に送りこんで戦死させてしまいます。直接手をくださずとも、邪魔になったウリヤを亡き者にできたと思えたでしょう。ダビデの内側に潜んでいた闇が突如吹き出してきたのです。人の罪は誠に不気味です。

いったん罪を犯すと、それを取り繕うために偽り、さらに嘘で塗り固めねばならなくなります。罪の責任から逃れる唯一の道は、誤魔化すことではなく、素直に認め、神の前に悔い改めて詫びることです。やがてダビデは預言者ナタンの追求を受け、言い逃れできないところまで追い詰められます。そして降参してやっと「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」(詩編第51編5節)と罪を認めて、言い表すのです。

「隣人の妻を奪うな」「姦淫するな」「殺すな」…これらは神の絶対的な命令です。戒めを破るのは結局、命令をされた神をないがしろにすることに通じます。成功して気が緩んだから、ダビデが罪を犯したとは思いません。もともとこのような神に背く傾向を、だれでも持っているのです。罪は人と人との関係に終わらず、神との関係にまで及びます。しぶとい罪です。その罪から救われる道は、キリストの十字架以外にほかにあるでしょうか。

 

2014年4月27日 礼拝説教要旨

神の家をたてる

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記下 第7章18-27節

使徒言行録 第17章22-28節

 

主題聖句:「…あなたの王国はあなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに固く据えられる。」      

サムエル記下 第7章16節

                                    

度重なる戦いの果てに30歳になったダビデはやっと全国統一を果たします。サウル王に追いかけられる心配はなくなり、やっと落ちついて自分の家に住むようになりました。ある時ふと気が付きました。自分はレバノン杉の家に住んでいる。それなのに神の箱が安置されているのはまだテントの中だ。自分をこれまでの地位に押し上げて下さった神に対して、ダビデは感謝の気持ちでいっぱいでした。自分に比べ、神の箱が置かれている場所はみすぼらしく、このままでは神様に対してあまりにも失礼で、申し訳ないと思ったのでしょう。神殿建設の思いが心に浮かんだようです。

 

ダビデが悪いことを思いついたと私は思いません。神に感謝を表したかったのでしょう。住む家を神から自分はいただいている。それ故に神にも家を造って献上するのが良いだろうと考えたのです。そんなに間違っているとは言えないでしょう。それでも神の恵みがダビデには、徹底してはわかっていなかったのです。神の恵みに対し、人間は物でお返しができるでしょうか。それこそ人間と神とを同じ水準におくことではないでしょうか?こんなに失礼な話はありません。恵みに応える道を深く知る必要がありました。

 

「神の箱を置く建物を建ててくれ」などと神は一度もおっしゃったことはないのです。人間がお返しを何もしなくて良いということではありません。どんなことをしたって、神の恵みに応えるには足りないでしょう。救っていただけるのであれば、むしろ、無条件で自分を神に明け渡し、神の救いの恵みを感謝して受け入れる信仰の道以外に何があるというのでしょうか?

 

 

2014年4月20日 礼拝説教要旨 

「 すべての民を弟子として 」

 

ダニエル書 第7章13、14節

マタイによる福音書 第28章16-20節

 

政所 邦明 牧師

 

中心聖句:「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」   

マタイによる福音書 第28章18、19節

                                    

人間にとって恐ろしいのは死です。体が腐敗して元の形が無くなってしまうから怖いのでしょうか?いや死が神から見捨てられる滅びになるのがほんとうは怖いのです。罪があるから人間は死んでも滅びを免れません。死の恐怖のため一生涯奴隷となっている人間を解放するためにキリストは甦られました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と主イエスは言われました。神の前で滅びてしまうのをキリストは打ち破られたのです。これ以上の権能があるでしょうか。一切のものを含む権能です。その権能によって罪の赦しを与えてくださいます。

一切の権能を父なる神からキリストは与えらます。「だから」11人の弟子たちを宣教にお遣わしになりました。罪を赦して人を救うことがおできになれないのに、どうして確信を持って、弟子たちを送り出されるでしょうか。そんな無責任なことをなさるはずはありません。「大丈夫、安心しなさい、わたしが保証するから…」と弟子たちの背中を押されるのです。

「すべての民を弟子にせよ」と命令されました。「この人は素直に信じそうだ。あの人は難しいかも知れない」とわたしたちは勝手に判断して、選り好みをしてしまいます。福音を伝えるのに容易な相手など一人もいません。「『すべての民に』と一切の権威を与えられたお方には勝算がおありなのだ」と信じるだけです。宣教の根拠は主イエスの復活された権能にあるのです。