2014年10月19日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

主イエスの家族とは

 

マルコによる福音書 第3章31-35節

主題聖句:「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

マルコによる福音書  第3章35

                                    

主イエスを中心にして二つのグループができています。主の側近くに呼び寄せられ、み言葉に耳を傾けている人々とその輪の外にあって、主イエスに会いにきたその家族、母親と弟妹たちです。しばらくぶりの再会を楽しみにきたのではありません。主イエスを取り押さえるためです。「気が変になっている」と噂になっていたからです。肉親の方が信仰的にも、実際の距離の面でも遠いのは、逆説といえるでしょう。

 

主イエスが甦られてからずいぶんあとに福音書は書かれたと言われています。十字架と復活とが明らかに前提にされ、主のお姿が描かれています。取り囲んで説教を聞いている人々は当時の「マルコによる福音書」の読者と重なるのかもしれません。「イエスは神の子キリスト」という信仰をもって近づいているのです。…①そば近くに信仰を持つ者、②その外側に「狂人扱い」をしてとり抑えようとする家族…と二重の輪ができています。肉親は近いようで、かえって主の本当のお姿が見えなかったのでしょう。

 

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。〝神の御心〟とは神によって救われることです。「これは神がお喜びになることだ」と自分勝手に決めつけ、何かをすることではありません。十字架と復活によって神がお与えになる救いを感謝して受け入れる。これこそ神の御心を行うことなのです。「わたしの願いではなく父なる神の御心をなし給え」とゲツセマネで祈られ、主イエスは十字架に向かわれました。その御心を感謝して受け入れるものこそ、母、弟妹だと言ってくださるのです。

2014年10月12日 礼拝説教要旨

聖霊を冒瀆するな

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第3章19-30節

主題聖句:「…聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負う」

マルコによる福音書第3章29節

 

先週の箇所では、12人を主イエスが任命された目的が書いてありました。(3章13節、14節)それは、①使徒たちを側に置くため②派遣して宣教させ、③悪霊を追い出す権能を持たせるためだというのです。

 

②と③の間か③の次に「病をいやす権能を持たせる」が入っても良さそうな気がします。ガリラヤで宣教を始めた時、主イエスが病を癒される行為に人々は強く引きつけられました。しかし、ここでは癒しの業は省かれています。それに比べて、〝悪霊追放〟の方は目的の一覧表にちゃんと挙がっています。しかも〝宣教〟と〝悪霊追放〟が並べて書いてあることから判断して、二つは一見関係ないように見えて、深いつながりがあるのでしょう。

 

「悪霊が人に取り憑いた」などというと、現代人は付いていけません。心の病の原因がわからないので、当時の人々は「何でも〝悪霊〟のせいにする」と理解します。しかし、悪霊の働きとしか考えられないものは、現代でも起こらないのでしょうか。人間には理性があるはずです。それなのに、紛争地域での残虐行為のニュースを世界中のいたるところで聞きます。

 

主イエスが教えを宣べ伝える、つまり説教されるのは、この世に働いている力、神に敵対する勢力を滅ぼすためなのです。その力とは罪と死の力といっても良いでしょう。十字架と復活において罪と滅びに対して、勝利を収められます。宣教の初期の段階では、そのことははっきりとはわかりません。悪の力や罪と死とを滅ぼすために主は来られました。そのことを予め示すために、主イエスは悪霊を追い出されたのです。

 

2014年10月5日 礼拝説教要旨

弟子を招く

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章13-19節

 

主題聖句:「イエスが…これと思う人を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。…彼らをそばに置くため、また、派遣して宣教させ…」

マルコによる福音書 第3章13

                                    

「これと思う人を呼び寄せ…」とあります。主イエスが多くの人の中から選び抜かれたのです。ワールドカップの日本代表選手は「代表に呼ばれた」と表現します。どんなに選ばれたいと思っても、監督にその気がなければ無理です。「選抜」は選ぶ権利のある人の意志が拠り所となります。

 

「呼び寄せる」…良い日本語です。主イエスの方にご自身が12人をグイッと引き寄せるイメージがあります。弟子たちが少々ためらっていても、主の引っ張る力があまりにも強いため、抗えない印象を持ちます。嫌な人から強引なことをされると迷惑でしょう。しかし、イエス様ならそんなことはありません。主イエスのほうがグーンと距離を縮めてくださるのです。「そばに」という言葉が繰り返されています。主イエスのおそばにおらせていただけるなら、どんなに幸いでしょうか。「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」と言われたお言葉を思い出します。

 

サッカーであれば〝選抜〟の目標は大会での優勝です。何もしないで選手と一緒にいるためではありません。しかし、12弟子選抜の目的は「派遣して宣教させる」以前にわざわざ「そばに置くためだ」とマルコは明言しました。順番としては「そばに置くため」が優先され、宣教より大事なのかもしれません。弟子たちを使って組織拡大を図ることが目的ではなく、ただそばに居てくれれば良いということでしょう。主イエスが、淋しいからではではありません。相手が何もしなくても“ただ一緒にいるだけで嬉しい”のが愛だからです。愛から出発してこそ、宣教も意味を持ってくるのです。

 

2014年9月28日 礼拝説教要旨

安息日の主

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章1-6節

主題聖句:「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

マルコによる福音書 第3章4

                                    

主イエスの立ち振舞に対して批判的に観察し、口出しをする人々が現れます。ファリサイ派です。主イエスや弟子たちに近づき、「あなたがたの行動は律法に反するのではないか」と質問をしてきます。…①主イエスが徴税人や罪人たちと食事までして交わっておられる②安息日であるのに弟子たちが麦の穂を歩きながら積むのを主イエスは放任しておられる。…これらの行状はファリサイ派の判断基準に照らすと、律法違反に当たります。主イエスの振る舞いは許しがたいのです。特に安息日の掟にこだわっていました。

 

安息日はもともと人に命を与え、恵みを与えて救うために神がお定めになったものです。言葉を変えて言えば、〝人を愛しなさい〟ということでしょう。ファリサイ派の人々は自分たちで作った掟にしがみつくあまり、安息日の根本のところがわからなくなっています。掟そのものが神にでもなっているかのようです。それは、ファリサイ派の人々だけの問題ではなく、わたしたちもまた、簡単に陥る罠のようなものではないでしょうか。

 

冒頭の御言葉は主がファリサイ派の人々にされた質問です。だれが考えても「善いことをし、命を救うこと」に、答えは決まっているように思えます。しかし、ファリサイ派は答えません。いや答えることができないのかもしれません。主イエスが安息日に人を癒やしても良いことになり、自分たちの主張と矛盾するからです。そこまで心が頑なになっていました。主イエスは、彼らの反発を恐れず、掟ではなく神の恵みによって生きるように、片手の萎えた人を癒されました。律法の呪縛から解き放とうとされたのです。