2015年2月1日 礼拝説教要旨

キリストの苦しみに与る

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第4章12-16節

 

主題聖句:「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を…驚き怪しんではなりません。」 

 (ペトロの手紙一 第412) 

 

 三度も主イエスを知らないと言って裏切ったペトロが、立ち直ってゆきます。ほかの弟子たちと同じように、ペテロにも、復活なさった方が出会ってくださいました。「ペトロの信仰が無くならないように」祈っておられたのです。(ルカ22:32)主イエスを愛するなら、羊たち(信者)の世話をするように、復活の主はペトロに3度命令されました。(ヨハネ福音書21章15節以下) 主イエスの期待と祈りに導かれ、支えられるようにして〝牧会者〟(魂を配慮する人)へとペトロは成長していくのです。

 

 その後何十年、伝道者としての道を歩んだのでしょうか。しかし、きっと〝試練〟と呼ぶような苦難の道をくぐり抜けて来たはずです。キリストの、み足の後に従い、教会と共に生きてくださるキリストと歩みを合わせてきたペトロのことです。主に従う厳しさは予想以上だったでしょう。骨身にこたえたはずです。しかし、厳しい生活の中で喜びもまた増し加わり、主への愛のゆえに、苦しみを厭うこともありませんでした。世の終わりにキリストにお目にかかる望みも戦いに耐える力となったはずです。

熾烈な戦いの中で、キリストの苦しみに与れば与るほど、ペトロと主との絆は強くなってゆきます。ペトロは〝上から目線〟で、ものを言ってはおりません。試練は始めから織り込み済みです。試練に出会っても当惑しないように、自分の体験から信者たちを安心させようとしています。主を愛し、従うことの喜びと素晴らしさとを何十年かで味わってきたのです。

2015年1月11日 礼拝説教要旨

洗礼とは

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第3章21-22節

主題聖句:「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると…」

(ルカによる福音書第3章21節)    

 

“主イエスが洗礼を受けられた”とマタイもマルコもルカも書いています。そのうち、マタイとマルコの記述からはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川で受洗されたことが伺えます。ルカは“どこで、だれから”受けられたかについて明記していません。ただ、民衆が洗礼を受け、その民衆の一人に加わるように主イエスが受洗されたと記しています。上記のみことばは民衆と主イエスの受洗とがきわめて密接であると簡潔に示しているのです。

 

罪のない神の子がなぜ、罪を抱えたままの民衆に紛れるようにして洗礼をお受けになったのでしょうか。罪のない方には必要ないはずです。この時点では謎が残ると思います。しかし、数年後、主イエスが弟子たちから裏切られ、逮捕される前に12弟子たちに言われたことばがあります。「…『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。…」(ルカ22章37節)これはイザヤ書53章12節の引用であると言われます。この言葉と主イエスの洗礼とは密接に関わるのです。

 

主イエスが宣教をなさる前に民衆の一人に紛れるように洗礼を受けられたのは、伝道のご生涯の目的が、罪人の罪を一身に引き受け、身代わりに死ぬことを暗示しているのではないでしょうか。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から声がありました。(ルカ3:21)ここにもイザヤ書第42章の言葉が含まれています。イザヤ第53章同様、苦難を受ける僕の姿を預言したものです。罪のない主イエスもまた洗礼を受けられたのは、罪深いわたしたちを救うためにこられたことを明らかにしているのです。