2014年12月7日 礼拝説教要旨

マリアの息子イエス

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章1-3節

主題聖句:「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。…」       

マルコによる福音書6章3

クリスマスが近づきました。この時期、イエス・キリストとは誰か、いったいこのお方はどのような方かをわたしたちは知ろうとしています。そうでなければ、ただ単に偉い宗教指導者の誕生だからお祝いしようというだけのことになってしまうでしょう。故郷の町ナザレで、安息日礼拝の時に起こった出来事がマルコによる福音書に記されています。

 

この日、説教を主イエスは頼まれたようです。その教えは素晴らしく、会衆席で聞いている人は驚きました。しかし、次の瞬間主イエスがどのような素性の人かを故郷の人々は思い出します。ナザレは大きな町ではありません。小さい頃からの様子を知っている人もいます。近所のおじさん、おばさん、それに一緒に遊んだ竹馬の友もいたかもしれません。それらの人々にとっては自分の知っている大工であり、マリアの息子イエスとしてしか理解できないのです。それを「人々はイエスにつまずいた」、そして主イエスは故郷の「人々の不信仰に驚かれた」とマルコ福音書は端的に表現します。

 

日常の主イエスをよく知っていても、それが救い主として信じることにはつながらないのです。そのこととは別に、いかにも神の子らしい、あるいはイエスが〝神に似ている〟と思わせる珍しいことだけを並べることも福音書はしません。奇跡によって、神の子でいらっしゃることを納得させたり、証明させたりするのが目的ではないからです。神が旧約聖書を通じて約束なさり、成し遂げようとしている救いは十字架に集中して現れます。そこに向かって進まれる救い主を私たちに聖書は知らせようとしているのです。

2014年11月30日 礼拝説教要旨

復活の先ぶれ

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第5章21-24a節、35-43節

 

主題聖句:「恐れることはない。ただ信じなさい。」

マルコによる福音書5章36

                                    

会堂長のヤイロは自宅に急いでいました。主イエスをお連れして、危篤の娘を癒していただくためです。

 

しかし、ヤイロを打ちのめす知らせが入ります。娘が亡くなったのです。「先生を煩わすには及ばないでしょう。」と付け加えます。死が立ちはだかります。厚くて高いが壁あって、「これから先は行かせない。さあヤイロの家にゆくことを諦め、元きた道を戻りなさい。行っても無駄なのだから…」と聞こえます。「死んでしまった以上、もはや何もできまい」という主イエスへの挑戦と言えるでしょう。自宅へ招いたヤイロを悲しませ、信仰を揺さぶるのに十分な言葉です。

 

死の知らせも主イエスの前進を阻むことはありません。「恐れることはない。ただ信じなさい」とヤイロを主は励まされます。死との対決が始まるのです。「子供が死んだのではない」と言われると人々はあざ笑います。恐れ、嘆き、あざけりを突き破るようにして、死から命へ少女を生き返らせなさいました。神の国、すなわち〝神が王として支配なさる〟と主は宣教されました。その内容が極まった形で明らかにされます。汚れた霊や病の支配からの解放だけでありません。主イエス・キリストは死に打ち勝ち、人間にとって最後の敵である死さえもご支配のもとに置かれるのです。

 

娘を生き返らせるのはご自身の復活の〝先ぶれ〟ではないでしょうか。この出来事を「誰にも言うな!」と主イエスは口止めをされました。しかし、娘の蘇生はキリストの復活を予め表すものです。そのことが明らかにされる時がきます。クリスマスはこの復活の主のお誕生を祝う時なのです。

2014年11月23日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

嵐の中に立つ

 

マルコによる福音書 第5章21-34節

 

主題聖句:「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もう病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

マルコによる福音書第5章34

                                    

12年間も出血が止まらない婦人がいました。主イエスの噂を聞き、この人だったら、あるいはこの人でなければ癒していただけないと上着の裾に触れたのです。その時に主イエスから力が出て行ったとあります。主イエスのご意思と関係なく反射的に力が出て行ったような印象を与えます。力が出ていったことにご自分でも気づかれ、「癒しの力を引き出すように触った人が群衆の中にいる」とおっしゃいました。そして周りを見回し探されます。

 

大勢の群衆が押し迫っていました。多くの人たちが、意図的に、あるいはついうっかり主イエスに触ったはずです。弟子たちさえ、主と肩が触れ合ったかもしれません。しかし、〝この人なら〟癒してくださる。あるいは〝この人でなければ〟癒してもらえないと切羽詰まった思いで、主イエスに向かい合い、触った人はたった一人だったのです。そしてその婦人を探し出され、ご自分の前に呼ばれました。毎日寝食を共にして付き従っている弟子たちにはショックな事態が目の前に起こっています。…自分たちは主イエスのそば近くにいて、行動を共にしているのに、ほんとうの意味では、主に触れていないのではないか?出会ってもいないし、イエス様から自ずと力が出てくるような繋がりを持っていないのではないか…ハッとして考えなおして見る瞬間となったのではないでしょうか?

 

信仰を持っていると言いながら、主イエスにすべてをかけているかが問い直されます。この御方がおられなければ、自分はとても生きてゆけないと思うほどに、強い主イエスとの結びつきを信仰者には求められているのです。