カテゴリー: あゆみ
2014年12月28日 礼拝説教要旨
イエスの家族とは
政所 邦明 牧師
ルカによる福音書 第2章22-35節
主題聖句:「-あなた自身も剣で心を刺し貫かれます-多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
ルカによる福音書第2章35節
誕生40日目に、エルサレム神殿に、主イエスをマリアとヨセフとは連れてゆきます。するとシメオンという人が待ち構えておりました。抱いて祈ってもらうことを期待したのでしょう。両親は幼子をシメオンの腕に委ねます。主イエスを抱いたシメオンは神を讃美する一方で、母マリアに対しては、恐ろしく不吉な預言をします。「剣で心を刺し貫かれる」というものです。体だけではなく、心の痛手をも意味するのでしょう。
天使のお告げから始まって、ベツレヘムで赤ちゃんを産むという経験をします。恥ずかしさと行く先の不安はマリアにあったかもしれません。しかし、赤ちゃんを授かったこと自体には喜びを伴ったでしょう。神のご配慮で、ヨセフの協力が得られ、許嫁であった男性とともに新家庭を築くことができたことも幸いだったはずです。
ところが、ベツレヘムの飼い葉桶の周りに突然、羊飼いたちが入ってきます。さらには東の国の占星術の学者たちがやってきて、拝礼までしてゆきます。受胎告知の時、天使が語ったとおりだと言えばそれまでです。しかし、訪問者が次々に現れ、讃美や拝礼をしてゆく様子を目の当たりにすると、マリアは喜ぶより、戸惑い、恐れることの方が多かったのではないでしょうか。
普通の母親-息子の関係を超える信仰をマリアに求められます。腹を痛めた息子へ、母としての情愛があるのは当然です。しかし、御心として愛する息子が十字架に進むのを受け入れるには、胸を断ち割られる苦しみを乗り越えなければなりません。シメオンの預言はマリアには挑戦だったのです。
2014年12月14日 礼拝説教要旨
神が共にいて下さる
政所 邦明 牧師
マタイによる福音書 第1章18-25節
主題聖句:「…『その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神はわれわれと共におられる』という意味である。…」
マタイによる福音書第1章23節
「神がわたしたちと一緒にいてくださる。」…この約束に対して、私はためらいなく、心丈夫で、喜ばしいものと考えておりました。しかし、一度立ち止まって考えてみます。はたしてそうとばかり言えるでしょうか。
皆様にも師匠と言えるような人がおられると思います。一面、師に憧れ、尊敬し、手ほどきを受けることを喜びます。その半面、その方の前に出ると緊張し、背筋がピッと伸びることはないでしょうか?あまりにも偉い先生なので、気後れし、窮屈さを感じるのです。研修会によく招かれる有名な牧師がおられます。講演会場は満杯、しかし、食事の時間は、広いテーブルに一人で、ぽつんと食べておられます。周りの座席はガラガラで、「みんな僕のことを煙たがって近寄ってこないのだよ…」とその先生は寂しそうでした。
礼拝では神の前に出るのです。尊敬とうやうやしさを持つはずです。今わたしたちが行なっている礼拝が「楽しく、気安い」ものにしかすぎないとしたら、問題でしょう。神に対して〝馴れ馴れしすぎる〟からです。
“神が共におられる”のなら…神の前に襟を正すことになります。その際に、神の前に自分の醜い姿が浮かびあがってくるでしょう。裁きの恐ろしさに打ち震えます。クリスマスを〝祝い〟〝喜び〟の時とだけしか考えないなら、“神が共におられる”ことの意味を十分に理解しているとは言えません。しかし、教会の歴史において待降節は、3月、4月の受難節よりも、もっと〝悔い改め〟を重要視しました。…自分の罪を悔い改めて神のもとに立ち返る。…それが“神が共におられる”ことの本当の意味だと思ったからです。