2014年8月31日 礼拝説教要旨

 

神の前にひとり立つ時

 

政所 邦明 牧師

 

創世記 第32章23-32節

主題聖句:「…何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。…『祝福してくださるまでは離しません。』」            

創世記 第32章25,27

                                    

双子として生まれたヤコブは、出産の時、先に生まれた兄エサウのカカトを掴んでおりました。これは、兄を押しのけ〝足を引っ張る〟その後のヤコブの生き方を象徴的に現しています。

ずる賢い手を使い、兄から長男の特権を譲り受け、目が薄くなった高齢の父イサクを騙します。兄になりすまして、長男だけが受けられる「祝福の祈り」をも奪ってしまったのです。「何もかも思い通りになった」とヤコブは思ったでしょう。ところが兄エサウの大変な恨みをかいます。そこで、身の危険を感じたヤコブは、伯父を頼って外国に逃げることになりました。

 

家畜を増やすことに才能を発揮し、羊や山羊をたくさん持つようになると、今度は伯父から妬まれます。ある時、「故郷に帰りなさい」とヤコブに神は言われました。兄の元を去ってから20年。長い歳月は経っても「兄さんはまだ怒っているだろうな」と思います。そこでおびただしい数の羊と山羊と贈り、兄の怒りをなだめようとします。しかし、そのような小細工では本当の〝和解〟は与えられないと気が付いたのでしょう。たった一人で、一晩必死に祈ります。聖書はそれを〝神との格闘〟と表現しました。足の筋を痛めしまうほど集中して祈ったようです。ホセア書ではヤコブは神に〝泣いて恵みを乞うた〟(第12章5節)とあります。兄の足を引っ張る生き方はヤコブの反逆でした。神の定められた次男の立場に満足できなかったのです。神と争い、神の顔をまともに見られなくなっていたヤコブが、神と〝顔と顔〟とを合わせ、そこからエサウに面と向かう勇気が与えられたのです。

 

 

2014年8月24日 礼拝説教要旨

名を告げる神

 

政所 邦明 牧師

 

出エジプト記 第3章1-17節

マルコによる福音書 第3章13-19節

主題聖句:「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。」

 出エジプト記第3章15節 

    

 

神の山ホレブで、神はモーセにご自分を現されます。イスラエル人として生まれたモーセは、事情により外国ミディアンの地で40歳から80歳まで羊飼いとして生活をしていました。このモーセを神はお立てになります。エジプトからイスラエル人を連れ出す指導者に召されたのです。

 

「モーセよ、モーセよ」と親しく名を呼んで、近づいて来られる神は、ご自分がモーセの「先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と名乗られました。同胞イスラエルはエジプトで、強制労働をさせられています。その同胞イスラエルを、苦しみから救い出すように神は、命じられるのです。そのためには、エジプトの王ファラオと対決しなければなりません。自分にそのような大役が務まるかどうかモーセは不安でした。そこでたまらず、神の名を尋ねます。不遜なことのようにも思えます。しかし、〝どこの何と言う神様〟が命じられたのかをハッキリと伝えなければ、イスラエルの人々は自分を指導者として信頼してくれないだろうと思ったのでしょう。

 

最終的には神は〝主〟(ヤーウェ)という名を明かされます。その前に「わたしはある。わたしはあるというものだ」と言われました。“名を知る”とは相手の存在を自分の手のうちに治めることを意味します。人が神の名を知れば、悪用しかねないことも起こるでしょう。しかし、神は人間が自由に操れるお方ではありません。自らのご意思でモーセをお選びになりました。「ある」には「ある者を○○にならせる」という意味があります。無力なモーセに力を与え、指導者にふさわしいようにされるのは神ご自身なのです。

2014年8月17日 礼拝説教要旨

視野を拡げて

 

政所 邦明 牧師

 

ヨナ書 第4章1-11節

マタイによる福音書 第12章38-41節

 

主題聖句:「お前は、…とうごまの木さえ惜しんでいる。…どうしてわたしが、…都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。…」  

ヨナ書 第4章11節 

                                   

ヨナ書は3ページほどです。一気に読んでみてください。悪の満ちた隣国アッシリアの首都ニネベの町に神は裁きを宣告なさいます。その使者として選ばれたのがヨナです。最初、神からのお召があった時、ヨナは嫌がって逃れました。さんざん神の民イスラエルを苦しめたアッシリアです。滅ぼされれば清々すると思ったのでしょう。逃げようとするヨナを連れ戻し、再びニネベの町に滅びを告げる器としてヨナをお用いになるのは神です。

 

宣教をしてみると、ヨナの予想に反して、ニネベの王は素直に態度を改めました。そして、人も家畜もみんな、悪の道から離れるように布告を出します。その様子をご覧になった神は、災いを下すのをおやめになりました。

 

裁かれるのをおやめになった神のなさり方はヨナには気に入りません。イスラエルの人々だけを〝ご自分の民〟としてお選びになったのです。外国のアッシリアに憐れみをかけられるのはおかしいと思ったのでしょう。ましてこの国はイスラエルの宿敵です。狭い〝選民意識〟にヨナは凝り固まっておりました。ヨナはひねくれ、神に対してふてくされるのです。

 

“あなたの神は小さすぎる”と言う言葉があります。ヨナは自分の小さい尺度で神を測りました。「わが思いは汝の思いと異なれり!」と神は言われます。慈愛に満ちた神を人間の枠内で捉えきることはできません。自棄(やけ)を起こすヨナに寄り添い、いろいろな手立てを用い、視野の狭くなったヨナを連れ出して、ご自分の大きさを神は見せようとなさいます。神に立ち返る悔い改めはニネベの町のみならず、ヨナ自身にも必要だったのです。