カテゴリー: あゆみ
2015年2月15日 礼拝説教要旨
自らすすんで
政所 邦明 牧師
ペトロの手紙一 第5章1-2節
主題聖句:「…わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人…として…」
(ペトロの手紙一 第5章1節)
いよいよこの手紙も締めくくりの部分に入ってゆきます。2章3章では「奴隷と主人」「妻と夫」へのそれぞれの勧めがありました。そのような関係においてキリスト者はどう立ち振舞うかを勧めたのです。それぞれの立場の違いによって摩擦は生じるものです。信仰者であろうとなかろうと関係なく、どのような両者間の関係においても、起こりうるでしょう。
ところが第5章からは〝長老の一人として〟ペトロは勧め始めます。明らかに教会内の秩序についての教えです。直接の相手は教会の指導者である長老たちです。ペトロは自分のことを〝キリストの受難の証人〟と呼びました。それを聞くと「本当にそうかなあ?」と疑問を持たれるかもしれません。ペトロを始めとして11人の使徒たちは主イエスが十字架にかかられた時には蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったからです。
〝受難の証人〟とは十字架の場面に立ち会ったかどうかだけを指してはいないでしょう。ヨハネからの受洗、ガリラヤでの宣教、十字架にかかり、甦り、天に挙げられた…それらのすべての出来事をつぶさに証言できる人つまり―主のご受難と復活の証人―であるとペトロは言いたいのです。
威勢の言いことを言っておきながら、いざとなると3度も主イエスを知らないと否認し、逃げ去ったペトロです。そのペトロに復活の主は自ら現れ、立ち直らせてくださいました。裏切っても、弟子として呼ばれた時から、ペトロを〝苦難の証人〟にするつもりで神はおられたのです。
2015年2月8日 礼拝説教要旨
主に魂をゆだねて
政所 邦明 牧師
ペトロの手紙一 第4章17-19節
主題聖句:「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」
(ペトロの手紙一 第4章19節)
ここで用いられている「時」は“ちょうどこのタイミング”“ドンピシャ”を意味する言葉が用いられています。どのような時でしょうか?その時には万物の終わりが迫り、緊迫感が伴うのです。(4:7)また、その時にはキリスト者の身に試練がふりかかります。(4:12)
「裁き」とは有罪として罰を与える、懲らしめるというのではありません。むしろ、その全段階の裁判を意味します。つまり正邪2つに選り分けるということでしょう。信仰者にとって試練は金属の〝精錬〟になぞらえられます。(1:7)高熱で溶かされ、金粕の部分と純度100%の金属とに分けられます。単に純粋なだけではありません。鎚で打たれて鍛えられる鋼に似ています。「裁き」は「鍛錬」なのです。
「裁き」はキリスト者をさらに神ご自身の清さにふさわしく整えて、さすがに神様のものにされたと言われるようにしてくださることです。それは品性が向上したとか、今までになかった技量が急に身につくということではありません。「聖徒」とはキリストのものとされた人という意味であって、高潔の人物ということとは違います。神様から深く愛されていることを知るようになる…それこそが「裁き」の成果なのです。日本語から連想するのとはずいぶん違います。試練とか苦難は神さまとの信頼関係、絆を強くします。それこそが試練の真価と言えるでしょう。「裁き」は精錬です。「裁き」は刑罰以外にこんなにも積極的意味があるのです。
2015年2月1日 礼拝説教要旨
キリストの苦しみに与る
政所 邦明 牧師
ペトロの手紙一 第4章12-16節
主題聖句:「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を…驚き怪しんではなりません。」
(ペトロの手紙一 第4章12節)
三度も主イエスを知らないと言って裏切ったペトロが、立ち直ってゆきます。ほかの弟子たちと同じように、ペテロにも、復活なさった方が出会ってくださいました。「ペトロの信仰が無くならないように」祈っておられたのです。(ルカ22:32)主イエスを愛するなら、羊たち(信者)の世話をするように、復活の主はペトロに3度命令されました。(ヨハネ福音書21章15節以下) 主イエスの期待と祈りに導かれ、支えられるようにして〝牧会者〟(魂を配慮する人)へとペトロは成長していくのです。
その後何十年、伝道者としての道を歩んだのでしょうか。しかし、きっと〝試練〟と呼ぶような苦難の道をくぐり抜けて来たはずです。キリストの、み足の後に従い、教会と共に生きてくださるキリストと歩みを合わせてきたペトロのことです。主に従う厳しさは予想以上だったでしょう。骨身にこたえたはずです。しかし、厳しい生活の中で喜びもまた増し加わり、主への愛のゆえに、苦しみを厭うこともありませんでした。世の終わりにキリストにお目にかかる望みも戦いに耐える力となったはずです。
熾烈な戦いの中で、キリストの苦しみに与れば与るほど、ペトロと主との絆は強くなってゆきます。ペトロは〝上から目線〟で、ものを言ってはおりません。試練は始めから織り込み済みです。試練に出会っても当惑しないように、自分の体験から信者たちを安心させようとしています。主を愛し、従うことの喜びと素晴らしさとを何十年かで味わってきたのです。