2018年9月9日 礼拝説教要旨

 キリストを証しするパウロ

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第9章19b-31節

 

主題聖句:サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ 伝えた。                   使徒言行録 第9章19、20節

 

キリスト教の迫害者サウロが、ダマスコの教会の迫害に向かう途中、天からの光に照らされ、復活されたイエス・キリストの声を聞き、その出会いによってイエスが真のメシア(救い主)と知らされ、悔い改めてイエス・キリストの名による洗礼を受けました。

 

そうして健康が回復したあと、アナニアに導かれてでしょう、ダマスコの弟子たち(キリスト者たち)と一緒にいたのです。交流が始まったのです。それから、すぐ何とダマスコにあるユダヤ人の会堂に行って、イエスこそ神の子ですと、イエスを伝え始めたというのです。驚くべきことです。彼がそのようにしたのはなぜでしょうか。ひとつは、自分が救われたことがうれしくて、その喜びと感謝を抑えられなかったからです。嬉しい時、自然と喜びがあふれるように。

そしてサウロの場合、今までイエスの名を呼ぶ者に反対

して殺害しようとするほどの熱烈な迫害者でした。そんな彼が、今やキリストに捕えられて、イエスをキリストと信じるようになり、神の御前でも、人々の前でも、自分の変えられたことを言葉と行動ではっきりと証ししなければならないと思ったからです。それは、イエスによって救われたという喜びがあるからです。私たちにとってもイエスを知って救われたことはうれしいことです。そのことを証ししたいものです。

2018年9月2日 礼拝説教要旨

  主によって備えられた出会い

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第9章10-19a 説

 

主題聖句:すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。                            使徒言行録 第9章15節

 

人の思いを超えた方法で、神は人に近づかれ、悔い改めに導き、赦しと救いを与えられることがあります。まさにキリスト教を迫害していたサウロに対しては、そうでした。主は彼に近づかれ、ご自身を示され、救いに導かれたのです。

 

サウロが救われるために、神はご自身だけでなさろうとされず、人が用いられたのです。主によって備えられた出会いがありました。その出会いは、初めはできれば避けたいと思えるようなものでした。

 

ダマスコに住むアナニアという主の弟子にとっては、サウロは出会いたい人ではありませんでした。関わりたくなかった人でした。なぜなら、サウロは恐ろしいキリスト教迫害者であったからです。そのような人の所には行きたくなかったのです。ですから抵抗しました。

 

しかし主は「行け」と言われました。この人は、わたしの名を伝えるために、わたしの選んだ器だと。過去はどうであれ、その人をわたしが選んだのだ。

 

そう聞いたアナニアは、主がこの人を選ばれ、彼に務めを託され、彼を神の教会に加えられたのだと受け止めたからこそ、彼に「兄弟サウロ」と呼びました。それが神のご計画だと認めたからです。そうして彼の上に手を置き、洗礼を授け、彼は主の教会に加えられたのです。

2018年8月26日 礼拝説教要旨

 サウロの回心

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第9章1-9節

 

 

主題聖句:「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害するイエスである。   

使徒言行録 第9章5節

 

私たちはしばしば自分の知識で正しいと思い行動していることが、後で、それが見当違いであったり、正反対であったりすることに気づかされて、はっとさせられることがあります。

 

サウロは、ユダヤ人としての厳しい高度な教育を受け、律法を堅く守って生活していると自負していました。彼の考えでは、イエスは偽メシアであり、神を冒涜している者であり、このイエスを信じる者も神を冒涜しているから、彼らを排除することが神の御心に適う事だと確信していました。その思いで、キリスト者たちを憎み、ダマスコに入るキリスト者たちを捕えるために向かっていたのです。そんなとき、突然、天からの光が彼らの周りを照らしました。サウロを呼ぶ声がしました。思わず問いかけると、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」との答えがありました。その声の主は、あの十字架にて処刑されて復活されて今天の父なる神の右に座しておられるイエスでした。復活されたイエスがサウロに出会ってくださっているのです。

 

この出来事はサウロには大きな衝撃でした。天からの声を聞いて、イエスこそがまことのメシアであられ、自分が迫害していたキリスト者たちはまことのメシアと信じていたのだから正しいことになります。そうであれば、自分はまことのメシアであるイエスを迫害していたことになります。そう知らされたサウロは心打ち砕かれたのです。

2018年8月19日 礼拝説教要旨

 聖霊の導きに従う

三好晴夫 牧師

使徒言行録 第8章26-40節

 

主題聖句:そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。   

使徒言行録 第8章35節

 

一人の人がキリスト者になる時には、その求める人と伝える人とが神の導きによって出会い、この二人の間でキリストの恵みが分かち合われて、その恵みが受け入れられるという出来事が起こっています。その出会いの不思議さは、まさに神ご自身の御業というほかありません。

 

本日の聖書箇所にも神の導きによって与えられた不思議な出会いが記されています。キリスト者フィリポが、主の使いによってエルサレムからガザへの道に下る道に行けと命じられて従ったことでこの出会いが始まりました。彼がそこに行ったところ、折しもエチオピアの女王の高官で、女王の全財産を管理する宦官が馬車に乗ってエルサレムで神様を礼拝して帰っている途中でした。宦官は、聖書の神を信じ、聖書をよく読んでいた人で、その時も馬車の中で声を出して聖書を読んでいました。その時、神の霊に押し出されて、フィリポは馬車の中の人に会うために、馬車に近寄ったら、その宦官が聖書を声を出して読んでいる声が聞こえてきました。その聖書箇所は、イザヤ書の中の、罪人の代わりに罪を背負って苦しみ贖いの業を成すしもべの預言でした。

 

宦官から、この預言は誰のことを言っているのか説明を求められたので、フィリポは、この苦難のしもべの預言は、イエス・キリストによって実現したと伝えたのです。聞いた宦官はイエスを信じ喜びにあふれて旅を続けました。聖霊の導きによって宦官は喜びを得たのです。

2018年8月12日 礼拝説教要旨

聖霊を受けるように

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第8章14-25節

主題聖句:人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。

                                           使徒言行録 第8章16節

 2千年前、約束の聖霊が主イエスの弟子たちに降り、確信に満ちた彼らが主イエスの福音を伝え始めた時から、聖霊の働きが大きく始まりました。聖霊は、父なる神と御子キリストから遣わされる神の霊です。この霊の働きによってこそ、私たちは神様が分かり、信じることができるのです。この聖霊こそが、仲違いしている人々を一つにするのです。

 

今日の箇所には、今まで仲違いしていたサマリアの人々が何と神の言葉を受け入れ、主イエスを信じたというニュースを聞いた、エルサレムの使徒たちが、サマリアにやって来て起こったことが記されています。

 

エルサレムの使徒ペトロとヨハネが見たのは、彼らサマリアの信仰者たちが主イエスの名によって洗礼を受けているが、聖霊が誰にも降っていない状況でした。どうしてなのか、詳しいことはわかりません。でも、サマリアの人々の信仰が不完全だったからだとも記されていません。その状況を見たペトロとヨハネが彼らの上に手を置いて祈ると、彼らは聖霊を受けたのです。それまで聖霊の導きが彼らにあったからこそ、彼らも主イエスを信じたはずです。さらに、もっと明らかな聖霊の導きとして外から見ても新たな力が与えられたとわかるような変化があったのです。そのことによってサマリアの信仰者も同じキリストの体であることが明らかにされました。この聖霊の導きを私たちも頂いています。

2018年8月5日 礼拝説教要旨

 キリストはわたしたちの平和

三好 晴夫 牧師

エフェソの信徒への手紙 第2章14-22節

 

主題聖句: 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、

エフェソの信徒への手紙 第2章14節

 

8月第一主日、平和主日として真の平和を共に祈りたい。第二次世界大戦が終わって73年が経過した。その戦争は世界中を巻き込み、悲惨なものだったと戦争体験者は語る。広島の原爆慰霊碑の碑文に「安らかに眠ってください。もう過ちは繰り返しませぬから。」とある。この過ちは繰り返してはいけない。73年間日本では大きな戦争はなかったが、日本に常駐するアメリカ軍は世界各地に軍隊を送って来た。日本の自衛隊も防衛の名のもと軍事訓練を続けている。日本もいつ攻撃を受けるか分からない。戦争の火種は、外側からだけでなく、人間の心の中にもある。争う心、人を憎み、虐げる思い。そういう思いがなくなり、赦し合うように真の平和を求めたい。

 

エフェソ書2章14節に「実にキリストはわたしたちの平和であります。」とある。キリストが真の平和を与えて下さる方である。しかし、私たち人間の現実には、平和を妨げるものがある。敵意という隔ての壁がある。その敵意となっているのが、律法である。これは悪いものではなく、人間の歩むべき正しい道を示すものなのに、お互いを裁くものになっている。人と神との平和な関係を妨げて来た。しかし、キリストがご自身の血によって敵意という壁を取り除いて下さった。神と人とが和解されて神の前に赦され、人同士が和解できるように道を開かれた。

 

2018年7月29日 礼拝説教要旨

 ステファノの死によって

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第8章1-8節

 

 

主題聖句: その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。

使徒言行録第8章1節

 

病気や事故など予期しない苦難に遭うことがあります。その苦難の時は大変つらいですが、時間が経ったあと、その苦難を通して本来歩むべき方向へと道を正されたと受け止められるようになることがあります。

 

エルサレムに誕生した教会は、ステファノの殉教をきっかけに大きな迫害が起こりました。ステファノの態度に怒りを感じたユダヤ人たちがステファノだけでなく、ステファノの仲間を捕えて牢に入れ、殺そうとしたのです。

 

この迫害を受けたのは、主にステファノと同じギリシャ語で礼拝を守っていたキリスト者たちであったようです。12使徒たちはヘブライ語で礼拝して居たので比較的迫害が少なかったのかもしれません。使徒たちは責任を感じてエルサレムに留まっていたのでしょう。その結果、使徒以外の迫害を受けたキリスト者たちは迫害の手を逃れて、エルサレムを離れてユダヤとサマリアの地方に散らされて行きました。

 

しかし、このように激しい迫害を受けて他の地方に移った人々は、自分が主イエスを信じていることを隠そうとはしませんでした。どこから来たのかと聞かれたら、正直に答え、それを機会にキリストの福音を宣べ伝えたのです。それを聞いて、救われる人も起こりました。この事実を見る時、迫害は辛いですが、それによって神の導きがあるのです。

2018年7月22日 礼拝説教要旨

  その方を信じる

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第7章51-60節

 

主題聖句:人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。

使徒言行録第7章59節

 

主イエス・キリストは天に帰られるとき、地上に残す弟子たちと信じる者たちに、主イエスの現わされた愛と救いを伝えていく役目を託されました。約束の聖霊が彼らに与えられた時から、その働きが力強く始まりましたが、反対もありました。信仰者ステファノも大胆に福音を伝えたため、最高法院に連れ出され、厳しい尋問を受けました。その弁明としてステファノは、旧約時代の歴史を紐解きながら丁寧に神様の約束に従うことの祝福をまず語り、続いて、イスラエルの先祖たちが預言者たちの語る戒めに従わなかったことも語りました。そして目の前の人々に、神の遣わされるメシアを預言する預言者の言葉に聞き従わず、正しい人(イエス)を殺したことをはっきりと指摘したのです。彼がそうしたのは、彼らに悔い改めて救われてほしいと願ったからでした。

 

しかし、ステファノの指摘を聞いた最高法院の議員たちは、激しい怒りに駆られてステファノに歯ぎしりをしたのです。けれども、彼は、天におられる父なる神とキリストを見つめ、「人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったのです。彼の言葉を神への冒涜を思った人々は逆上し彼を外に連れ出し処刑しました。けれども、彼は処刑を受ける中、自分の命を神様にゆだね、自分を殺す者のために祈ったのです。まさに主イエスのようです。すべてをご存知の主を信じゆだねたのです

2018年7月15日 礼拝説教要旨

 まことの神の家

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第7章44-50節

 

主題聖句:けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。                        

 使徒言行録 第7章48節

               

教会がまことの神の家というのは、建物が立派さによってでも、また長い伝統によってでもありません。まことの神の家にふさわしい教会であるためには、礼拝する者がここにまことの神様がおられると信じて、神の言葉に基づいた礼拝をささげるのでなければならないと思います。

 

有力な説教者ステファノは、ユダヤ人たちから「お前は聖なる所をけなしている」と訴えられて、その問題に対して聖書に基づいて弁明しました。ステファノから見れば、ユダヤ人指導者たちが、エルサレムの神殿を誇っているけれども、ちゃんと正しく神を礼拝しているのか疑問であったのです。

 

それで、彼は、旧約時代において神殿がなかった時代があったこと、その時に幕屋があったことを明らかにします。幕屋とは、荒れ野で神を礼拝するための組み立て式の礼拝所でした。しかも神からモーセに設計を示され指示通りに造られたものです。その幕屋で人々は神に近づき、神とお会いして、神の言葉である神の戒めの刻まれた石の板を納められた神の箱の上で礼拝していました。礼拝の仕方は幕屋の時代から神殿になっても変わっていません。だからステファノは言うのです。神殿という建物は人の手で造られたものですから、いと高き神がそこにお住みにはなりません。神殿は、神の民の礼拝のために神の与えられた場所に過ぎないのです。大事なことは神の言葉に従って礼拝することなのです。

2018年7月8日 礼拝説教要旨

 神の民の大きな罪

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第7章39-43節

 

 

主題聖句:彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。

                            使徒言行録 第7章41節

               

私たちは、神様から愛され救って頂いたことが分かり、安心し神様を信じました。そうして始まる信仰生活は、神様の救いに感謝して神様のみ思い(み言葉)に添うように生活していく生活です。でも、いつのまにか私たちは神様の愛を当たり前のように思ってしまい、神様のみ思いに従うことが出来なくなってしまうことがあるのではないでしょうか。

 

有力な説教者ステファノが長々と弁明をする中で、ステファノが神の律法を冒涜していると訴えるけれども、実は彼らユダヤ人こそが、律法に従わないで、罪を犯していると指摘して始めたのです。

 

その弁明の中で、イスラエルの先祖たちが、モーセに従おうとせず、退け、エジプトをなつかしく思い始めたと語ったのです。それは、彼らが、シナイ山に登ったモーセが40日経っても下りてこないので、不安になったからだというのです。それで彼らはモーセの兄アロンに「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください」と求めました。すると、アロンは彼らの圧力に負けて、人々から集めた金を使って鋳物の子牛を造ったのです。すると人々はその子牛を、自分たちを導いた神だと崇め、供え物を献げたのです。しかしそれは間違いでした。神を形ある見えるものにすることは神の望まれない大きな罪でした。このようなことにならないように、ステファノは私たちにも指摘しています