2015年5月17日 礼拝説教要旨

神にのみ頼る

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章6-13節

主題聖句:「…イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、12人を呼び寄せ、2人ずつ組にして遣わすことにされた。」  

マルコ6章6,7節 

                                  

ガリラヤの町々村々を巡り歩いて、主イエス・キリストは神の国の福音を宣べ伝えられます。「神のご支配がこのお方と共に始まっている」…これが宣教の内容です。しかし、聞いた人が快く受け入れてくれるとは限りません。故郷ナザレでは、会堂に集まった人がイエス様につまずき、不信仰に陥ります。(5節)、それでも主はひるまれません。伝道を続けられ、志と熱意とは、変わることはありませんでした。

 

活動を始められた時、まず4人の漁師に「わたしについて来なさい」と声をかけられます。さらにこれと思う人を呼び寄せます。その中から、12人を選び抜かれ、「使徒」と名前をお付けになりました。「12人を(ご自分の)側に置く」(3章13,14節)ことが選抜の第一目的です。12人は主と行動を共にし、教えを聞き、また、主の力ある業に立ち会いました。

 

12人の選任後、ご自分は伝道の最前線から身を引き、宣教は弟子たちに任せることもできたはずです。準備が整い、12弟子をふたりずつお遣わしになる時でさえ、主イエスが伝道の業をおやめになるわけではありません。依然として中心には伝道なさろうとするイエス様がおられます。冒頭の6,7節のみ言葉は、一見当たり前のようでありながら、伝道の中心が主イエスであるのをよく示しています。「使徒」たちは主イエスの伝えられた「神の国の福音」を託されたにすぎません。12人は、ご命令に従い、主の業を受け継ぎます。この御方が、神の守りと支配とを、保障してくださるからこそ、持ち物を最低限に留め、神を信頼し、安心して出て行くのです。

 

2015年5月10日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

共にいて下さる神

 

創世記 第31章1-13節

マタイによる福音書 第28章16-20節

 

主題聖句:「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」           

マタイによる福音書第2820

                                   

復活された主イエス・キリストは弟子たちを再びガリラヤに集められます。ここを新しい出発の場所とされたのです。ガリラヤの高い山で11弟子たちに主イエスは出会ってくださいました。紛れも無い出来事として復活された方が神の力をもって現れてくださったのです。その厳かさにうたれたのでしょう。弟子たちはひれ伏さざるを得ません。礼拝をします。しかし、この時の様子をマタイ福音書は正直に伝えています。「疑う者もいた」何人かの者は疑ったのです。完全に信じた人と疑いを含んでいた人と2つのグループがあったとは思いません。みんな大なり、少なり、信じることにためらいがあったのです。完璧な信仰者などありません。目の前にイエス様がいらっしゃいます。疑いようなどないはずです。「幻でも見たのか」と自分の目を疑ったのでしょうか。そうではなく、思わずひれ伏した弟子たちにとっても、常識からすれば“復活はありえない出来事”であり、戸惑いを覚えざるを得なかったということでしょう。見たり聞いたりする自分の感覚にだけ頼ろうとすると、主イエスの復活は不確かになります。復活は見て確かめるのではなく、最後は信じるべき事柄なのです。

 

弟子たちから疑いを取り去って、その後伝道に遣わされようと主はされません。疑いがあったとしてもそのままにして、弟子たちに近づいてゆかれ、宣教の命令を出して、遣わされます。弟子たちは宣教する中で主イエスが自分たちと共におられることに気がついていきます。伝道の経験の中で疑いが消えて行き、主が生きておられる確信に変えられていったのです。

 

2015年5月3日 礼拝説教要旨

ここは神の家

 

政所 邦明 牧師

 

創世記 第28章10-17節

 

主題聖句:「…ここはなんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」           

創世記第25章23

                                   

 

生まれた時を起点し、死ぬ時を終点とします。「その2点に挟まれた線分(数学用語)が自分に与えられた人生である」としましょう。人生の中でも進学、就職、結婚など一般に重要であるとされる時があります。そのような節目、節目に、神の御心を尋ね、過ちに気づかされたら、悔い改め、その後、感謝をささげて、もう一度出発できたらどれほど幸いでしょうか。重要と思われる時は、とりわけ神と祈りにおいて格闘するものです。

 

人生を左右する分け目の時だけとは限りません。「キリスト者の生涯は毎日が悔い改めである」とルターは言いました。起床から就寝まで、場合によれば寝ている間も、祈る生活であればこれほどの幸いはありません。

 

「ズルい」ことをして、そのまま家庭に居続けることができなくなったので、母方の伯父のもとへヤコブは逃れます。途中、野宿することになりました。兄エサウと父イサクを騙し、長子の権利と神の祝福を奪い取ったヤコブです。〝してやったり〟と、ほくそ笑んでばかりいたのでしょうか。そうでもないでしょう。親子、兄弟の関係は崩れてしまいました。悔やんでもいたはずです。ヤコブは夢を見ます。天に階段があり、天使が上がったり下りたりしていました。ヤコブにみ言葉を運んでいたのです。御心を告げようとしたのでしょう。ヤコブにとって、そここそが礼拝する場所でした。よく朝、目が覚めたヤコブは、神がこの場におられることを知ります。居住まいを正し、記念碑を立て、礼拝して、出発の起点としたのです。