2015年6月7日 礼拝説教要旨

豊かな命を与えるキリスト

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章30-44節

主題聖句:「イエスは…大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れみ…」

マルコによる福音書 第6章34節

主イエスの評判は高まっていきます。信仰への渇きを感じて、主と使徒たちを追いかけて、人々は向こう岸に先回りをしました。群衆のお腹がすっかり空いていたかどうかはわかりません。たとえ餓死寸前ではなかったとしても、群衆の魂は「飼い主のいない羊のような有様」だと鋭く見抜かれます。腸が痛む強い感情を伴って、主イエスは人々を憐れまれたのです。
羊たちが食べ物に事欠かないようにさせるのが、羊飼いの第一の使命です。それのみならず羊たちに信頼されつつ、群れをしっかり導かなければなりません。「主は羊飼い、わたしには何も欠けるものはない」(詩編23編1節)とあります。神のものとされ、神に完全に支配されたと信じるようになって初めて、わたしたちは一人前の信仰者となるのです。神が心を占めてくださらなければ、神でない偶像が支配します。導びかれていると信じることができれば、幸いです。そのために主は奇跡を起こされます。

 
群衆の魂の飢えを満たすため、5つのパンと2匹の魚を分け与えられました。ヨハネ福音書では「私は命のパンだ」(6:34)と主は言われました。この何千人かの人をわずかの食べ物で満腹させた話は4つの福音書全部に書いてあります。心に強い印象を残し、この出来事によって、最初の教会の人々は慰められたに違いありません。単にパンの奇跡として励まされただけではありません。この話は、教会が聖餐を祝う場面で、繰り返し語られるようになりました。キリストご自身が命を差し出して、自分を救い、永遠の命をお与えになりました。十字架と復活の話として読んだのです。

2015年5月31日 礼拝説教要旨

語らせる神・聖霊

 

政所 邦明 牧師

 

使徒言行録 第2章1-13節

 

主題聖句:「…彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」                 

使徒言行録第2章11

                                   

「聖霊なる神様は、あなたたちのところへ必ず来られます」と主イエスは使徒たちに言われました。「聖霊が使徒たちの上に降られる」…これは、父なる神様の約束でもあります。だから「父の約束を待て!」と主は繰り返されました。その時が復活から50日目にきます。祈って備え、〝聖霊降臨〟を待っていた使徒たちの群れについに聖霊がくだられました。

 

この時、自分たちだけに分かる言葉を使徒たちは語ったのではありません。聞いている人にもちゃんと理解できたのです。5旬祭のため、世界各地からユダヤ人たちが巡礼で、エルサレムに来ていました。土地によって言語も違うはずです。ガリラヤの人々から「神の偉大な御業」を、巡礼者たちは聞くことになります。しかも、“聞いても分かる”のです。これは各地に住むユダヤ人たちにとって驚きであったに違いありません。

 

「わたしたちの言葉で」とは、聖霊を受けた使徒たちの言葉がよく理解でき、内容が〝心に届いた〟というのでしょう。「罪の赦しを得させる悔い改めが、イエス様の名によってあらゆる国々の人々に宣べつたえられる」と復活の主は予告されました。(ルカ24:47) その約束が実現し、世界宣教の開始を予感させる出来事が聖霊降臨の日に起こったのです。聖霊を受けた人々の言葉が、自分とは関係のない〝他人ごと〟ではなく、自分たちに向けて語られた内容であると聞く人々に分かりました。自分たちにも通じる言葉で、救いが語られている出来事に人々の心が動き始めます。「イエス様を主」と告白する信仰へと導くのは聖霊のお働きによるのです。

2015年5月24日 礼拝説教要旨

聖霊が降る

政所 邦明 牧師

使徒言行録 第1章1-11節

主題聖句:「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」           

  使徒言行録第1章5

  

ガリラヤで宣教活動を始められる前に主イエスはバプテスマのヨハネのところにゆかれ、洗礼を受けられます。ヨハネは次のように言います。「自分は水で洗礼を授けるが、自分のあとからおいでになる方、すなわちイエス・キリストは聖霊により洗礼をお授けになる」…このヨハネの言葉は主イエス様の耳に届いていたはずです。しかし、ことさらには言及されません。黙っておられましたが、やがてそのような時がくるのを承認して、時を待っておられました。

 

宣教されたのち、最後は十字架で、罪の裁きの刑罰を受けてくださいました。そして甦り、40日に亘って使徒たちに現れなさいます。そこで、ヨハネが語った言葉を改めて口にされます。「あなたがたは間もなく、聖霊による洗礼を授けられる」主イエス様の甦りによって水による悔い改めの洗礼は確かな根拠を持ちました。神が行われた救いの業が水で洗礼を受けた者に、目には見えなくても、救いの現実とならなければ意味がありません。そのために間もなく聖霊が働いてくださるのです。主イエス様の救いが聖霊なる神のお力により、その人にグングン迫り、「確かに自分は罪赦されている」との確信が与えられます。エゼキエル書第11章16節には、「一つの心に新しい霊を授ける。その霊が働いて、肉から石の心を取り除き、肉の心を与える」と預言されていました。聖霊が来てくださる時、目が開かれます。頑なさが砕かれ、救いを受け入れる心が与えられるのです。

聖霊は、わたしたちに救いの確信をハッキリさせてくださるのです。