2015年7月5日 礼拝説教要旨

主イエスだけがおられる。

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第9章28-36節

主題聖句:「 これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」という声が雲の中から聞こえた。           

ルカによる福音書 第9章35

                                   

主イエスに対して、あなたは「神からのメシアです。」とペトロが信仰を言い表します。すると“自分は、苦しみを受けて殺され、3日目に復活するメシアである”と使徒たちに主イエスは打ち明けなさいました。

 

その8日後、祈るために、12人のうちペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて、山に登られます。祈っておられるうちに主イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きはじめます。神の独り子のお姿が現れるのです。

 

さらに旧約聖書の代表モーセとエリヤとが栄光に包まれ、出現します。すでに神のもとに召された二人が再来するのは不思議としか言えません。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後」つまり、十字架と復活について主イエスも交え、3人で語り合っておりました。復活され、使徒たちに現れなさった時、旧約聖書をひもときながら、主イエスは「メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する」と言われます。

 

主が殺されると聞かされた使徒たちはショックだったでしょう。それは受け入れがたい事柄だったはずです。しかし、旧約聖書を代表する、モーセとエリヤもまた、死んでよみがえられる救い主を支持し、証言しました。それ以上に決定的なのは「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言われる父なる神様の承認です。主イエスご自身も、旧約聖書も、そして、何よりも父なる神様のお考えも、すべてピタッと重なりました。最後にそのように証言されたイエス・キリスト様だけが3人の前に残っておられたのです。弟子たちの心に強く刻印された光景だったに違いありません。

2015年6月28日 礼拝説教要旨

主イエスに触れる

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章53-56節

 

主題聖句:「病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」 

マルコによる福音書 第6章56節 

                                  

ゲネサレトという地名の所に主イエスの一行が着くと、それを知った人々の行動は激しいものでした。イエス様がおられる所なら、何処へでも病気の人を運んだと言います。この人たちは〝ご利益〟だけを求めたと非難できません。悩み苦しむ人を主イエスは待っておられたのです。病人にご自分の服を触らせ、癒しの力が出てゆくのを拒まれませんでした。

 

主イエスの所に行けば、神がおられる、神の力によって強められ、慰められると信じたからこそ、追いかけ回すように、居所を突き止め、病人を床に乗せて運んだのです。わたしたちは果たして、イエス様のところへ連れてゆくのに、これだけの情熱を傾けられるでしょうか。

 

「病人に、せめてイエス様の衣の裾にでも触らせてあげてください」と人々は願いました。それは肌に触れるのは恐れ多い、服の、しかも端っこで構わないと遠慮したのでしょうか。ところが民数記第15章37節以下には、衣服の4隅に房を縫いつけなさいと命令されています。それはイスラエルの民が神に属する人々であることを思い起こすためなのです。

 

主の力によって癒やしが起こります。奇跡と言ってよいでしょう。しかし、病状の改善、回復などその人の〝得〟や利益が大事なのでしょうか。民数記のその箇所で神は「わたしはイスラエルをエジプトから救い出した主だ」と宣言されました。神との深いつながりができて奇跡は始めて奇跡としての意味を持ちます。病気の人が衣の裾に信仰をもって触る時、イエス様は癒やすだけではなく、救いをお与えになる方だとわかったのです。

2015年6月21日 礼拝説教要旨

「神のこと・人間のこと」

船本 弘毅 師

マタイによる福音書 第16章13-28節

主題聖句:「 それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか 」 

マタイによる福音書 第16章15

 

 イエスの公生涯は、あまり長くはありませんでした。前半の「ガリラヤの春」と呼ばれる時期と後半の「十字架への道」を分けるのが、今日のテキストであるフィリポ・カイサリアの出来事です。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問われた主は、さらに弟子たちに向き直って、「それでは、あなたがたは」と問われました。ブーバーは神を信じるということは三人称で語りうることではなく、二人称で向き合う時に成立すると語っています。

 

ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。そしてまさにこの時からイエスは受難の予告を語り始められました。「そんなことがあってはなりません」といさめ始めたペトロを、主は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と叱責されました。

 

「メシア告白」の直後に「受難の予告」がなされたのは、イエスは救い主として、否、救主であるがゆえに、十字架にかかられたことを示しています。そこに人間の思いを超える神の思いがあります。ボンヘッファーは、「神の恵みは、独り子を十字架につけるという高価な価を払って実現された。神の犠牲を伴なう高価な恵みを、わたしたちは安価な恵みとして受けとめていないか」と問いかけています。

敗戦70年という節目の年は、ISのテロ事件で始まり、多くの自然災害が続き、平和が脅かされている危険を感じさせられています。この時代をわたしたちは、どう生きようとしているのでしょうか。「わたしを誰と言うのか」という主の問いを聞きつつ、キリストなしには生きられないキリスト者として生き続けたいものです。

2015年6月14日 礼拝説教要旨

恐れず、安心しなさい

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第6章45-52節

主題聖句:「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」 

マルコによる福音書 第6章50

                                   

パンの奇跡が行われた後に、弟子たちをしいて舟に乗りこませ、向こう岸へ主イエスはゆかせます。そして、ひとりになられ、山で祈りに集中されました。湖の上では弟子たちの行く手を逆風が阻みます。弟子たちは漕ぎ悩み、夕方から夜明けまで、風と格闘します。その間、ずっと主イエスはとりなしの祈りを続けておられました。

 

古来より教会は舟にたとえられてきました。教会も、キリスト者も試練にさらされます。わたしたちの苦闘や試練の時にも、主イエスは祈り続けて、支えてくださるのです。そして、何もかも〝もうダメだ〟と追い詰められ、弟子たちが神を信頼するしか方法がなくなった時、主イエスは近づいてきてくださいました。しかし、弟子たちはイエス・キリストが神の力をもって現れてくださっているのに、実体のない幻〝幽霊〟としか思えません。〝確かにここにいてくださる神〟として、主に助けを呼び求めることをしません。そこで、怯える弟子たちに舟の外から、親しく語りかけられます。心がほぐれます。弟子たちは不信仰から信頼へと変えられました。

 

さらに「安心しなさい。」と励ましの声をかけられます。“わたしだ”これは「わたしはある。わたしはいる」と宣言なさって、神が民に、ご自身を表される時に用いられる言い方です。復活された主も、そう言って弟子たちに現れなさいました。神として自らを表されたのです。このお言葉によって、弟子たちは心を開きます。お迎えする用意ができました。主は舟に乗り込まれます。そして、湖にも弟子たちにも平安が訪れたのです。