2015年9月13日 礼拝説教要旨

十字架を負う

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章34節-第9章1節

 主題聖句:「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」 

マルコ福音書第8章35

                                   

主イエス様は言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節) 従う意志のある相手にだけ声をかけられるのです。したがって「自分の十字架」とは自ら進んで選び取るものです。自分の思いと関係なく、強制的に負わせられるものではありません。ともすれば、“自分は生まれつき体が弱い”とか、“天災や不慮の事故に巻き込まれた”などを自分の十字架だと考えたくなります。しかし、それらは、その人の責任ではなく、意志と無関係に負わせられた苦しみです。自分の力ではどうにもならないものを引き受けなさいと主イエス様は言われるはずがありません。

 

「自分の十字架」とは神様のために進んで背負うものです。苦しみ自体をことさらに美化してはいないでしょう。信仰生活は喜びであるはずです。

 

しかし、滅びに向かう人間を愛し、父なる神様は独り子イエス・キリスト様を送ってくださいました。わたしたちを救うために主イエス様は、十字架の死を選びとってくださったのです。この父である神様と御子イエス・キリスト様を愛するからこそ、キリスト者は十字架を進んで選び取るのです。誰でも愛する者のために犠牲を払ったり、辛さを引き受けたりします。その場合と違いはありません。救われ、命を与えられた者として苦しみを担います。その際も、主イエス様にどこまでもついて行くことが前提とされます。一人で歩くのではなく、先立って十字架を取られた方がおられるのです。その御方の背中を見つめながらついてゆくのです。

 

2015年9月6日 礼拝説教要旨

サタンよ 引き下がれ

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章31-33節

 主題成句:「弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『…あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」 

マルコ福音書第8章33節      

ペトロが「あなたは、メシアです」と主イエス様に信仰を言い表しました。その告白を受けて、これからご自分の身の上に起こる出来事を弟子たちに話しはじめられます。宗教指導者たちから多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、3日の後に復活する道をたどられるのです。苦難を受けて人を救うメシアを父なる神様は望んでおられ、お定めになっているのです。

 

自分たちの尊敬する大切な先生が殺されるなどあってはならないと思ったペトロは、聞いた途端に主イエス様をいさめはじめます。

 

「サタン、引き下がれ」とペトロに言われました。師弟関係に上下の秩序があるにしても、ひどい言葉です。ペトロが憎いのではありません。十字架にかかって死に、人の罪を償うあり方こそ、神様の願われる救い主の姿だと断固として言われます。しかし、十字架を避ける道をペトロは無意識のうちに持ち込もうとしました。主イエス様にとっては誘惑になります。〝十字架以外に救いなし〟です。自分たちに幸福をもたらすのが救い主ではありません。人間にいちばん必要なのは罪の赦しです。しかし、心が鈍くなっているため、罪からの救いを人間は切実に求めたりはしないのです。

 

神様からの導きと示しとを受けなければ、わたしたちはどのような救いが必要なのかはわかりません。自分にとって好ましい救いを求めるからです。十字架の死に向って進まれるのは主イエス様にとっても戦いであったに違いありません。しかし、あらゆる誘惑を退け、父なる神の望まれる救い主の姿を追い求め、最後まで従い抜こうとされたのです。

 

2015年8月30日 礼拝説教要旨

イエス様はメシア

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章27-30節

 主題聖句:「それでは、あなたがたはわたしを何ものだというのか」ペトロが答えた。「あなたはメシアです」    

マルコによる福音書第8章29

                                   

フィリポ・カイサリアの地方に弟子たちと主イエスが向っておられた時のことです。さりげない様子で、「君たちは私のことを何者だと言うのか」と弟子たちに質問されました。「言う」とは言葉にハッキリ表すことです。心秘かに、「ああでもないこうでもない」といろいろ悩み、迷った状態で留まっているのとは違います。口に出すのです。結論をひとつに定め、責任をもって答えます。その答えそのものが、答えた人のその後の生き方、信仰生活の方向を定めます。生き方そのものにも責任が問われるのです。

 

「あなたはどう言うか」とそのものズバリを質問される前に、別の問いかけをキリストはなさいます。…「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」…それに対して、「洗礼者ヨハネ」と「預言者エリヤ」の名を弟子たちは挙げます。その時二人はもう地上にはおりません。つまり死んでしまった人間が再来したと言うのでしょう。ほかに宗教的天才、偉人、などいろいろな言い方をした人がいたはずです。しかし、どれも主イエスが期待され、望まれる答えではありませんでした。〝これぞ答え!〟はひとつです。主イエス様はすでにご自分でちゃんと答えを持っておられるのです。弟子たちが口で告白するまで、待っておられるのでしょう。

 

しかし、正解を言い当てれば、「それでおしまい!」ではありません。「あなたはメシアです」…メシアとは救い主を意味します。口で言いあらわすだけでなく、確かに私を救ってくださると信じて、この御方に自分自身を投げかけ、実際に救っていただいて、始めて告白が意味を持つのです。

 

2015年8月23日 礼拝説教要旨

 

キリストが見える

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章22-30節

 

 主題聖句:「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」

マルコ福音書8章25

 

                                   

この箇所のすぐ前で「…悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか」(8章18節)と主イエスは弟子たちに理解を求められました。弟子たちの姿との比較で、ベトサイダにおいて盲人がいやされ、見えるようになります。この奇跡と弟子たちの姿は無関係ではありません。この後の8章29節において、「イエス様はメシアだ」とペトロが告白する出来事に繋がってゆきます。病のために視る力を持たなかった人が視力を回復してゆく、…ここは、単にそれだけの話ではありません。信仰の目をもって、主イエス様をどう見るかが問題なのです。

 

人から教わらなくても、生まれながらに他人の粗捜しをする能力を私たちは身につけています。その代わり、自分の本当の姿をあるがままに見ようとはしません。自分の欠点には目をつぶるのです。それなのに、「自分は見るべきものをちゃんと見ている」と言いはります。…見えていないのに、見えているつもりでいる。…だから余計に始末が悪いのです。

 

「愛はすべての咎を覆う」と聖書にあります。他人の悪を忘れれば良いのに、それができません。見なくても良いものに目を凝らし、見なければならない事柄から目を背けます。「神様!わたしは悟りの悪い、物事が見えない者です」と素直に認め、「導いてください」と助けを求めれば、その一点から始められます。神様のお力によって、目が開かれてゆくのです。イエス様が、私たちの信仰の眼を開いてくださいます。この御方が目を開いてくださる時、メシアであるイエス様の姿が見えてくるのです。