投稿者: matsuyama-alliance
2015年11月1日 礼拝説教要旨
収穫の主に願って
政所 邦明 牧師
マタイによる福音書 第9章35-38節
主題聖句:「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
マタイによる福音書 第9章36節
主イエス様は何もしないで、じっと群衆を眺めておられたわけではありません。ガリラヤ中の町々村々を巡り歩かれたのです。諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝えられました。言葉による宣教がまず行われ、宣教に癒しの業が伴います。宣教と癒しをなさりながら、次から次へとご自分の前に現れる人々をご覧になって、きっと主イエス様は思われたでしょう。…どの人も、心の中にポッカリと開いた穴(空洞)がある。神様の恵みによって埋められなければ、けっして満たされることはない。…その様を「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」とマタイによる福音書は表現しました。主イエス様はその実情を鋭く見ぬかれたのです。群衆は精神的な飢えと渇きを感じています。〝飢え〟は単に空腹感だけを意味しません。〝飼い主のいない羊〟は惨めです。草や水のある場所に連れていってもらえないばかりか、猛獣からも守ってもらえず、命の道から絶たれます。心の支えも失ってしまうのです。「これが道だ。これに歩め!」とだれかが導いてくれなければ、さまよう以外にないでしょう。
自分たちのほんとうの姿に群衆のひとりひとりは気がついておりません。しかし、主イエス様のほうが鋭く見抜いておられました。〝深く憐れむ〟つまり、はらわたが痛まれるのです。飢餓状態は福音によって、満たされる必要があります。求められる量に比べ、用いられる人の数は圧倒的に足りません。そこで、主イエス様はご自分で全部供給しようとはなさらず、弟子たち…すなわち教会に、その業に加わるように促されるのです。
2015年10月25日 礼拝説教要旨
すべての人に仕える
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第9章30-41節
主題聖句:「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
マルコによる福音書 第9章37節
12弟子を代表してペトロが「あなたこそメシアです」と信仰を言い表します。すると「排斥されて殺され、3日の後に甦る」と主イエス様はうちあけられました。自分の先生の身に災難が降りかかるなど、弟子たちは思いもよらなかったことでしょう。十字架と復活を通して人を救うメシアであるとおっしゃったばかりに、弟子たちに動揺が走ります。〝苦難メシア〟を受け入れるために激しい内面の戦いが始まるのです。
主イエス様は十字架にむかって進んでゆかれます。しかし、受難を予告されると、弟子たちの本性がクッキリと浮かび上がってきました。彼らは「自分たちの中でだれが一番偉いか」を議論し、のし上がることだけに心を奪われていたのです。「自分の十字架を背負って従ってきなさい」と主イエス様は命令されました。神の子であられるお方が、一番身を低くし、人の救いのために自分の命を献げ、仕えようとしておられます。なのに、それと真反対の方向を弟子たちは目指しています。そこで、主イエスの御心を教えるために子供を弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げられました。
子供は無邪気だから中心に立たせたのではありません。子供ではなく、忌み嫌われる病にかかった奴隷を真ん中に立たせられたとしたらどうでしょう。事柄がもっとハッキリしたはずです。値のない、最低の者を主イエス様は受け入れられます。いや罪深い私たちのために十字架にかかってくださいました。主イエス様に私たちは受け入れられているのです。それを恵みと受けとめる時、私たちもまた、人を受け入れることができるのです。
2015年10月18日 礼拝説教要旨
不信仰を助けたまえ
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第9章14-29節
主題聖句:「『できれば』と言うか。…その父親は…信じます。信仰のないわたしをお助けください。…」
マルコによる福音書 第9章23、24節
悪霊に苦しめられる子供を持つ父親がいます。その息子を主イエスのもとに連れてきました。霊は子供を引きつけさせ、地面に倒します。このような凄まじい力に苦しめられている現実を主イエス様もまた目の当たりにされました。厳しい現実を直視されても、それでもなお「おできになるなら、私たち親子を憐れんでください」と父親は主イエス様に願いました。「もしできるなら…」失礼な言い方です。 “ダメで元々、仮に結果がうまくゆきさえすれば、それでいい”的な、どこか逃げ道を作っています。
「『もしできるなら…』と言うのか」と主イエス様は問い返されました。「疑いを差し挟むような、無礼で、不適切な言い方をするなら、癒してあげないよ」と癒しを拒絶されたように感じたのでしょうか?父親は慌てます。「信じます。信仰のないわたしをお赦しください」「信じます」とは「信じたいと思います」くらいかもしれません。しかし、自分のことを「信仰のない私」と言いました。父親はとても正直です。
自分の無力や不信仰を告白し、一念発起して、努力すれば、すこしはましな信仰を私たちは持てる気がします。そうではありません。私たちは生まれつき罪に染まり、自力で信仰を持つことはできません。信仰は神様から与えられるのです。「信じるものには何でもできる」と主イエス様は言われました。信頼に足るお方は唯一神様だけです。神様だったら、いや神様でなければ、悪霊の支配からお救いになれないのです。何でもおできになる唯一のお方への信頼だけが私たちには求められているのです。