投稿者: matsuyama-alliance
2020年12月13日 礼拝説教要旨
目の見えない人が見え
三好 晴夫 牧師
マタイによる福音書 第11章2-19節
主題聖句:イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え…
マタイによる福音書 第11章4、5節
待降節第3主日として、救い主イエスの少し前に現れて救い主の道備えをした洗礼者ヨハネについて学びます。
洗礼者ヨハネは荒野に現われ、「神の裁きが近づいたから、自分の罪を悔い改めよ」と教え、後に来られるメシアとしてイエスを紹介しました。そのようなヨハネが牢の中にいたのは、当時の領主ヘロデの罪を彼が責めたからです。それでヘロデに捕えられ、牢の中にいたのでした。牢の中でヨハネが気になっていたことは、自分が真剣に紹介したイエスが、果たしてメシアとしてどんな働きをしているかということでした。しかし、自分の弟子たちから聞いた情報によれば、イエスは自分の期待したようなことを行っていないということを知って、彼はぐらついたのです。それで、自分の弟子を遣わしてイエスに尋ねたのです。「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの者を待たなければなりませんか。」
主イエスはヨハネの弟子たちに、「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と答え、旧約聖書イザヤ書35章5,6節、61章1節を引用して、今起こっていることを教えられたのです。「目の見えない人は見え」るようになっています。神のなそうとされる救いの御業がイエスにおいて起こっているのです。ヨハネでさえも、自分の考え、理想の中にイエスをはめ込もうとするとつまずいたのです。イエスに思いを向けよう。
2020年12月6日 礼拝説教要旨
不信仰にならないように
三好 晴夫 牧師
マタイによる福音書 第13章53-58節
主題聖句:イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
マタイによる福音書 第13章57、58節
「群盲(ぐんもう)象を評す」ということわざがあります。多くの盲人が象を撫でて、自分の手で触れた部分だけで象について意見を言う意味から、凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないというたとえです。そのように、私たちが、主イエスを理解するときも、その一部しか理解できないために、主イエスを正しく理解できずに、つまずいてしまうことが起こっているのではないでしょうか。
今日の箇所で、主イエスは育った故郷に帰られ、会堂で教えられたとき、故郷の人々がその教えに驚いたとあります。そして、イエスにつまずいたのです。どうしてそんなことが起こったのでしょうか。彼らは主イエスの教えを聞いて、その知恵と奇跡を行う力はどこから得たのかと、驚き叫んだのです。その時彼らが考えたのは、その力は天から来たとは考えず、周囲を見回したのです。この人は大工の息子だ、母親はマリアだ、その兄弟たちは、我々と一緒に住んでいるではないかと考えたのです。イエスを自分たちと同じ世界に生きる人としか考えられなかったのです。その理解によってイエスを預言者と尊敬はしても、救い主とは認められなかったのです。イエスの語る言葉を、神からのものとは受け入れることができなかったです。私たちが主イエスの言葉を聞く時に、主イエスがどんな思いで私たちに語られるのか、信仰を持って受け止めるようになりたいものです。
2020年11月29日 礼拝説教要旨
主の来臨の希望
三好晴夫 牧師
イザヤ書 第2章1-5節
ロ-マの信徒への手紙 第13章11-14節
主題聖句:更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。・・・今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
ローマの信徒への手紙 第13章11節
私たちの知っている今はどんな時でしょうか。異常気象、高齢化社会、コロナ禍による健康不安や経済不況、貧困など、厳しい現実の中にあり、それらに対して耐え忍びつつ、誠実に生きようとしている私たちです。そういう見方は、どこか今の瞬間だけを見た近視眼的な見方です。それだけでは不十分ではないでしょうか。もっと広い視野で見ていかなければなりません。そのような見方を助けてくれるのが、聖書の指し示す、神がどのように私たち人間とこの世界をご覧になっておられ、どのように救おうとしておられるかという視点です。
イザヤ書2章1節以下には、敵の攻撃に囲まれて苦しむ民に対して、終わりの日に主の神殿の山に多くの人々が主の教えを聞くためにやって来る。その教えによって平和の日が来るとイザヤが語って、民に、主の救いが来るとの希望を指し示しました。その預言は、主イエス・キリストの来臨とその御業によって実現し、この方による救いが示されました。さらにローマ13章11節には、今、私たちが信仰に入った頃よりも時が経ち、信仰がますます深まり強められてより救いが近づいているとあります。この救いは、やがてキリストが来られ死人を復活させて生きている者を立ち上がらせてくださる終わりの日の救いが近づいているのです。私たちはその時に備えて、闇の行いを止めて、光である神の前にキリストを信じて歩みましょう。