2016年1月31日 礼拝説教要旨

 

「柔和の力」

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章5節

主題聖句: 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」 

              マタイによる福音書 第5章5節  

                      

〝柔和〟な人といえば、おとなしく、やさしい人を思い浮かべます。古代のギリシャ哲学者によれば、 “怒らないといけない時には、正しく怒り、怒る必要のない時には、間違って怒らない”…それが〝柔和〟だそうです。つまり弱々しいのではなく、体に筋が一本通っています。しなやかでありつつ、したたかな強さも兼ねそなえた徳目を〝柔和〟に見ているのです。

 

それに対し、旧約聖書の〝柔和〟は逆境の中で、苦難に耐え、神様の助けを待ち望む信仰の姿勢を意味してきました。この信仰の伝統を受け継いだ形で「柔和な人々は幸いである」と主イエスが祝福を告げられたのです。

 

マタイによる福音書では、あと2回、柔和が用いられます。「すべて重荷を負って苦労している人はわたしのもとに来なさい」と言われた主イエス様がご自分を“柔和で謙遜な者”と言われました。(11:29)また、エルサレムにロバに乗って入られます。それは〝柔和な王〟として来られる預言の成就だというのです。(21:5)ふたつとも、主イエス様を指しています。

重荷を負い、苦労している者にやすらぎを与えられます。また、力ではなく、やさしさをもって支配される王の姿を示してくださいました。徹底してへりくだり、力を捨てられる神の独り子を、人々は力をもって、十字架の上で殺してしまいます。その主イエス様を神様は復活させられます。復活は神の優しさが人の暴力に勝つ証なのです。

 

柔和は、わたしたちの心が広いか、狭いか度量の問題ではありません。神様の優しさにいっさいをかけるかどうかの信仰の問題なのです。

2016年1月24日 礼拝説教要旨

悲しみへの招き

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章4節

 

主題聖句: 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 

マタイによる福音書 第5章4

  

親しい人が悲しみに突然突き落とされる経験をします。たとえば愛する家族や友人を亡くすることなどです。そのような悲しい知らせを聞いた時、 “何か慰めの言葉をかけてあげなければ”と思います。けれども、どう声をかけて良いのかわかりません。あまりの惨状に、人は、言葉を失います。不用意な慰めは相手を傷つけるだけだと知っているからです。

 

その時「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と語りかけられるでしょうか。“他人事と思って、よくいうよ!無責任な発言だね”と、嘆き悲しむ本人は、かけられた言葉に、反発するか、あるいは腹をたてるかも知れません。しかし、主イエス様だけが〝慰め〟を約束できるお方なのです。ご自分は少しも悲しんでいらっしゃらないのに、〝気休め〟で「慰められる」と安請け合いをしておられるのではありません。

 

主イエス様を預言しているイザヤ書にこうあります。「彼は…悲しみの人で病を知っていた」(53章3節口語訳) 十字架にかかられる前、ひとりで祈られた時、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14章34節)と言われました。悲しみの極限を経験してくださいます。わたしたちの代わりに罪を償うために試練にあわれ、悲しみを味わい尽くされました。そして復活され、悲しみをも滅ぼされたのです。だからこそ、同情してくださり、ほんとうの慰めをわたしたちにお与えになることができるのです。

 

祈って、嘆き訴えます。天におられる神様に悲しみがのぼっていきます。それと同時に、尽きることのない慰めがわたしたちにくだってくるのです。

 

2016年1月17日 礼拝説教要旨

神の国に生きる

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章3節

 

主題聖句: 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちものである。」 

マタイによる福音書 第5章3節 

 

山上の説教で語られた主イエス様のお言葉の魅力は〝逆説〟にあります。日本語の一般的な意味での〝心の貧しい人々〟はふつう、「不幸」と考えるでしょう。中味がみすぼらしく、ひどくやせ細っている人より〝心の豊かな人〟が幸いだと言うのなら、筋が通ります。

 

ところがその常識に反して“心の貧しい人々は幸いである”と主イエス様は言われるのです。一見辻褄があわず、矛盾しているように思われます。けれど、何か深い信仰の内容が含まれているのではないかと予感させるのです。「貧しさは」経済的な困窮だけを意味してはいないようです。

 

ルカの方は「貧しい」と書いてあります。マタイは「心において貧しい」と言葉を加えました。そのために意味が広がります。「心の貧しさ」を謙遜と取る人もあります。しかし徳目の一つの〝謙遜〟だけでしょうか。この世界において圧迫され、失望し、部屋の片隅に縮こまっている人を思い浮かべました。すべての可能性が閉ざされ、神様だけに頼る道が残されている人です。境遇の面から言えば最悪です。しかし、信仰の面から言えば、「神様にだけ期待する絶好のチャンスではないか」と主イエス様は言われました。まだ余裕があって、神様にたよらなくても、何とかやっていける間は、本気になって神様を求めません。切羽詰まることも恵みなのです。

 

「天の国はその人たちのものである」…「天の国」とは“神様がその人を捉えている”の意味です。絶望している人を神様はお見捨てになりません。両手で挟み付けるように祝福(幸い)の中においてくださるのです。

 

2016年1月10日 礼拝説教要旨

 祝福を告げる言葉

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章1-12節

 

主題聖句: 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」 

 

     マタイによる福音書 第5章12節  

      

この章の3-12節には8つ、あるいは9つの〝幸い〟が語られています。しかも文語訳で3節は「幸いなるかな、心の貧しきもの」と訳されていました。祝福を告げる言葉で始まるのです。「おめでとう、心が貧しくて!良かったね。喜んで良いのだよ!」と褒められています。クリスマスに天使ガブリエルが「おめでとう、恵まれた方」とマリアを祝福した言葉を連想しました。(ルカ:2章28節)でもマリアはこの言葉に戸惑うのです。

 

祝福を告げられても、“心の貧しい者が幸いなのか?”その理由が分かりません。常識的には〝貧しい〟を〝不幸〟と結びつけます。「無責任な気休めを言うな!馬鹿にするのか!」と腹を立てる場合もあるでしょう。

 

しかし、主イエス様は、お語りになることにキチンと責任をお取りになります。「まぶねの中に」という讃美歌があります。クリスマスに歌いました。「たくみの家に人となりて、貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし、この人を見よ」とあります。主イエス様は人の世の暗さと生きる辛さをご存知です。苦しみを自ら経験され、よく理解してくださいます。

 

主イエス様は人間の闇の中にご自分が入り込むようにされながら、そのところで〝幸い〟すなわち、神様に祝福された有様(状態)を語られました。十字架というどん底にまで墜ち、そして甦られました。人間の罪の暗闇を一方でご自身に引き受け、また一方で、雲のように、霧のように吹き払われました。それが十字架です。祝福される言葉に対しては、ご自分が救いの業を成し遂げることで、キチンと責任をお取りになったのです。