投稿者: matsuyama-alliance
2016年4月10日 礼拝説教要旨
信じる者になれ
三好 晴夫 牧師
ヨハネによる福音書 第20章24-29節
主題聖句:それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。…信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
ヨハネによる福音書20章27節
復活された主イエスは、トマスにも復活の姿を現されました。
主イエスが復活されたその日、すなわち日曜日の夕方、その彼ら弟子たちが隠れているその場所に、主イエスは入って来られ、あいさつをされ、御自身の十字架刑でできた釘の跡のある両手と、槍で刺された傷跡のある脇腹を示されたのです。それを見た弟子たちは、主イエスの復活を知って喜びました。しかし、その場に、弟子のトマスはいませんでした。
その後、トマスが戻ってきて、ほかの弟子たちから、「私たちは主を見た」と聞いて、彼はそれを全然受け付けられず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。
でも、そんな信じられない中にも、トマスは仲間のことを大事に思って離れないでいたのです。とにかく、この群れの中にいたのです。
1週間後、トマスと弟子たちが皆、家の中にいたときに、主イエスが閉ざされていた戸から入って来られました。そしてあいさつをされ、すぐにトマスの心にある疑いを指さすようにして、言われました。
主イエスは、トマスに、御自身の手のひらにある釘の傷跡を見せられ、「ここにあなたの指を付けてみなさい。ご自分の脇腹にある、槍で刺された傷跡を見せられ、手を伸ばし入れなさい。」と言われたのです。
トマスは、主イエスの復活されたお姿を見、彼の疑いが消え、信じたのです。理屈でわからないと信じないと思っていた私たちですが、復活の主イエスを見た人たちの証言によって復活を信じる信仰が与えられています。
2016年3月27日 イ-スタ-礼拝説教要旨
ペトロにも伝えよ
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第16章1-8節
主題聖句: 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。…」
マルコによる福音書 第16章7節
金曜日の夕方、十字架からおろされた主イエス様の体をきれいに拭き、香油を塗って葬りの準備を婦人たちはしたかったのです。けれどもその時は日暮れが迫り、十分な暇がありませんでした。安息日あけのよく日、日曜の朝、夜が明けるのを待ちかねたように、婦人たちはお墓にでかけます。
行ってみると、入り口を塞いでいた大きな石が脇に転がしてあり、墓の中が覗けました。ふつうではない気配を婦人たちは感じます。中には天使と思われる人物がいて、主イエスのお体がないのを示して、「主は甦られた」と告げるのです。そして男の弟子に伝言を頼みました。内容はこうです。「主イエス様は先にガリラヤに行って、あなたたちを待っておられる。行きさえすれば、お目にかかれる」その時、弟子たちとは区別するように、「ペトロ」の名前を天使は挙げました。「ペトロにもまた」、あるいは「そしてペトロにも」と訳せるのです。
婦人たちは、はじめ恐ろしくなって黙っていました。しかし、そのうちのひとりマグダラのマリアに甦られたイエス様は出会ってくださいます。もう男の弟子たちに黙っているわけにはゆきません。
男たちは聞いても信じません。その11人が食事をしている時、主は現れてくださいました。「ペトロにも」とわざわざ付け加えられたことをマリアはそのまま伝えたはずです。3度も知らないといったペトロは主イエス様に顔向けができないと思っていたでしょう。しかし、そのペトロにも主は出会ってくださいます。お忘れになることはけっしてなかったのです。
2016年3月20日 礼拝説教要旨
恐れのない愛
政所 邦明 牧師
ヨハネの手紙一 第4章13-18節
主題聖句: 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す。」
ヨハネの手紙一 第4章18節
18節の少し前、第4章10節です。その箇所で、「罪を償ういけにえとして御子を(父である)神様がお遣わしになりました。“ここに愛があります”」とキッパリと言い切っています。その文脈において、18節の〝愛〟は主イエス様が命を捨ててわたしたちを滅びから救ってくださった愛と同じものです。そして、十字架を通して与えてくださった神様の愛の中には「恐れが存在しない。」と言っています。
神様の愛はまるで大きな家のようにたとえられています。その家の中には愛がいっぱい詰まっているのです。〝恐れ〟が外から入ろうとしても、愛が満ち満ちているのでつけいるスキを与えません。もし、恐れが、中にまぎれ込もうとするなら、すぐに外につまみ出されてしまいます。
今日は教会の暦では棕櫚(シュロ)の日曜日です。この日エルサレムに弟子たちと共に主イエス様が入られます。受難週が始まるのです。群衆は木の枝を打ち振って歓迎しました。おりしも過越祭が間近です。雰囲気に酔いしれ、よく考えもせず、人々はお祭り気分で、主イエス様を迎えただけかもしれません。罪を償うための呪いの十字架を背負おうとしておられることをどれほど理解していたでしょう。しかし、じっさい神様は罪人を救おうとなさいました。ここに愛が確かにあるのです。
その主イエス様の救いは〝恐れをまったく〟締めだしてしまいました。運命も罪の呪いも、自分すらも恐れる必要はありません。それなのになぜ恐れるのでしょう。“恐れはもうこれでおしまい!”決着はつきました。