2016年7月10日 礼拝説教要旨

罪人を招くイエス

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第2章13-17節

 

主題聖句:「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

                  マルコによる福音書2章17節

 

  自分が健康なときには、医者が必要だとは思いません。しかし、医者を必要とする時があります。自分が病気であると自覚する時です。自分が病気と知ったら、病気を直してもらいたくて医者を求めます。

 

しかし、私たちは自分の健康に敏感ではありません。自分が病気の症状があっても、どんなにしんどくても、病気と気づかず、医者を必要と思わないところがあります。

 

それと同じように、私たちは、霊的な病気と言われる、自分の罪に気づいていないのではないでしょうか。私たちを愛し、導いて下さる神から離れてしまい、自分勝手な生き方をしていることに気づいていないのではないでしょうか。罪深い症状があったとしても、自分は問題ないと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。自分の問題に気づかないために、自分の魂の医者、すなわち、救い主キリストが必要だということも気づいていないことがあるのではないしょうか。実は、主イエスを知らなかった時の、私たちはそんな状態にあったものです。

 

主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。主イエスが来られたのは、自分が正しい、汚れていないと思っている人を救うためではなく、自分は、罪があると思っている人を見つけ出して救うために来て下さったのです。

 

2016年7月3日 礼拝説教要旨

罪は赦される

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第2章1-12節

主題聖句:「イエスはその人の信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦さ

れる』と言われた。」         

マルコによる福音書2章5節

 

 

  今日は中風の人に注目します。この人は中風のため腕や脚が麻痺して自分で体を動かすことが出来なくなっていて、生活に様々な支障があったようです。その様子を見かねた友人たちは、あるとき、この人を寝床に載せたまま主イエスのもとに連れて来ました。

 

ところが、主イエスのおられる家は人々で戸口まですきまのないほどになっていて、主イエスに近づくことができませんでした。でも、彼らはあきらめません。主イエスのおられる家の屋根をはがして穴をあけ、病人をつり降ろしたのです。このなりふり構わぬ熱心さをご覧になった主イエスは、彼らの行動を「彼らの信仰」と認められたのです。彼らのように、何としてでも主イエスにお会いしたいと願い求める人の態度を主イエスは「信仰」と受け止めてくださるのです。

 

そのとき、主イエスは驚くべき言葉を言われました。この中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われたのです。

 

では、主イエスはなぜ、「あなたの罪は」と言われたのでしょうか。それは、病気以上に、人の苦しみの一番大きな原因は、罪から来るものだと知っておられたからではないでしょうか。罪が人と人との交わりを

 

駄目にしてしまう。しかし、主イエスが、罪のことを言われた最大の理由は、主イエスが罪を赦すことの出来る方だからです。主イエスは、地上で罪を赦す権威をお持ちの方だからです。あなたの罪は赦されるからです。

 

2016年6月26日 礼拝説教要旨

深き憐れみ

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第1章40-45節

主題聖句:「イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」 

マルコによる福音書1章41、42節

 

 

 今日は、重い皮膚病を患っていた人が、主イエスに自分の病気の清めをお願いして、清めていただいた出来事から、主イエスの御業を学びます。

 

彼の抱えていた病気は、重い皮膚病でした。体の皮膚の腫物、湿疹などの皮膚の疾患でした。当時、この病気の治療法がなくて、直るまで人々から離れて独りで住まなければなりませんでした。そのために、このような病気にかかった人は病気の苦しみや悲しみを抱えるだけでなく、仲間から隔離され、差別や軽蔑を受け、大変な悲惨な生活を強いられていたのです。

 

彼は、主イエスが近くに来られたことを知って、主イエスのところに行き、ひざまずいて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」とひたすらお願いしたのです。ひざまずくという謙虚な態度ですが、主イエスがお望みになるならば、この私を必ず清めてくださると信じますと、堅く信じて願っているのです。

 

このひたすらな願いを聞かれた主イエスは深く憐れんで、手を指し伸べてその人に触れ」られました。「深く憐れんで」と訳される言葉は、はらわたのよじれるようなとも訳される言葉です。主イエスはこの人の苦しみに、ご自分の内臓が震えるような、痛みを感じるような憐れみを抱いて下さったのです。その愛と憐れみのゆえに、手を差し伸べてその人に触れてその人の痛みすら感じ取って、「わたしの心だ。清くなれ」と言って癒し、清めてくださいました。主イエス・キリストは、今も私たちの抱える罪のための苦しみをも、深い憐れみをもって清め癒してくださるお方なのです。