2016年10月16日 礼拝説教要旨

 

 安心しなさい。わたしだ。

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第14章22-33節

主題聖句:「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」                  

  マタイによる福音書第1427

                   

 

  自分としてはひたすら努力しているのに、前に進まずどうにもできない事態に出くわすことがあるのではないでしょうか。今読みます聖書の箇所の弟子たちも、自分の力ではどうにもできない状況に出くわしたのです。それをどう乗り越えたのか、どう助けられたのかを見ていきたい。

 

弟子たちは、主イエスに強いられて、自分たちだけで舟に乗って向こう岸に向かうように指示され、ガリラヤ湖を渡り始めていました。主イエスは一人になって山で祈りの時を持たれていました。そんな時、突然、逆風が襲ってきて、舟は前に進めなくなり、強風に吹き戻される状態になりました。

 

そんな状態が夜明け前(午前3時ごろ)まで続きました。弟子たちはどんな気持ちで、何とかしようともがき苦しんでいたのでしょうか。そんな時に、何かわからないのですが、白い物体が自分たちの方に近づいてきたのです。それは湖の上を歩いてどんどん近づいてきます。彼らはそれを恐怖と感じ、思わず幽霊だと叫びました。まさにその時、白い物体から力強い声がかかりました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 

声の主は、自分たちを導いてくださっているあの主イエスその方でした。主イエスが、自分たちを助けるために来て下さったのです。「わたしだ」と言われた主イエスが、共にいてくださるのです。そうと分かって恐れから安心に変わりました。私たちの人生にも、前に進めなく行き詰まりを覚えて、もがき苦しむことがあります。そんな時、弟子たちと同じように、恐れや不安と不信仰に陥ってしまうかもしれません。そういう私たちに、主イエスは近づいてくださり、安心しなさい、わたしが共にいると呼びかけて下さいます。

2016年10月9日 礼拝説教要旨

 いのちを養われる主

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第6章30-44節

主題聖句:「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。」   

    マルコによる福音書第641 42

                   

   今日の箇所には、男だけで5千人の人々が、五つのパンと二匹の魚によって、満腹になったという奇跡が記されています。このパンの奇跡は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのどの福音書にも記されているということは、弟子たちにとってよほど忘れがたい出来事であったということです。

 

主イエスと弟子たちが舟から陸に上がろうとした時、目の前に大勢の群衆が主イエスのところに集まって来ました。その姿を見た主イエスは、彼らが、飼い主のいない羊のように、それまで自分たちを導いていた指導者を失って悩んでいることを知って、深く憐れまれ、彼らに、色々と教えられました。

 

もう時間もだいぶ経っていった時、弟子たちは、このままなら人々が食べるものが必要となると思い、主イエスに、解散させて、自分たちで食べる物を買いに行くように命じてくださいと進言しました。ところが、主イエスは、弟子たちに、あなたがたが、彼らに食べるのを与えなさいと言われたのです。弟子たちは、自分たちにはそんなことはできないと思いました。そこで、主イエスは、弟子たちに、パンがいくらあるか、見て来なさいと命じ、彼らは確認して回ったところ、パン5つ、魚2匹とわかりました。弟子たちはこんなわずかなものなら、とても人々には足らないと思いました。

 

しかし、主イエスは自ら弟子たちに指示を与えて、人々に座らせ、そのパンを受け取って天を仰いで祈り、パンを裂いて弟子たちに渡して配られると、皆食べて満腹したのです。この出来事は、主イエスこそ、人々のいのちを養われるお方であることを示しました。主イエスは私たちをも養われる。

 

2016年10月2日 礼拝説教要旨

信じているとおりに

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第9章1-13節

主題聖句:「そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。」

                   マタイによる福音書第929, 30

 

信仰とは、神様がどんな御方かを知って、神様に信頼していくことです。このことを、二人の盲人の信じ求めていく姿から教えられましょう。

 

彼ら盲人は目が見えないゆえに様々な困難や苦しみを経験して、自分たちが救われることを願っていました。彼らの目の前に主イエスが現れたとき、この時とばかりに、主イエスに向かって叫び、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください」とお願いし続けたのです。

 

彼らがどうして、主イエスに向かって「ダビデの子よ」と叫んだのかというと、昔、ダビデが王であった時、神殿を建てることを願ったとき、預言者を通して約束があったからです。ダビデの子孫から、イスラエルを治める王が起こり、その王座はとこしえに続くという約束です。それ以来、人々は、来るべきメシヤが来るのを待ち続けていました。ですから、主イエスが力強い教えをなさり、病人を癒されるという驚くべき御業をなさったことを聞いた人々は、もしかしたら、このイエスこそ、来るべきメシヤではないかと期待したのです。それでこの二人は主イエスにこのように叫んだのです。

 

しかし、主イエスは、外においては、何の応答もされませんでした。そこには深い意味があったのです。それでも、彼らがあきらめず求め続けて、家の中でイエスに近づいたとき、イエスから「わたしに出来ると信じるのか」と尋ねられました。彼らが信じますと答えると彼らの目に触れて「あなたがたの信じるとおりになるように」と言われ、彼らの目が開き見えるようにして頂きました。私たちも彼らのように、主を信じ祈り続けたいものです。

 

2016年9月25日 礼拝説教要旨

 不信仰にならないように

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第6章1-6節

主題聖句:「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に過ごしているではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。

 マルコによる福音書第63

 

今日学ぶ、主イエスの故郷の人々は残念ながら、自分たちの故郷の会堂で主イエスの語る説教を聞いて、驚き、つまずいたのです。そこから、信仰について学びたいと思います。

 

あるとき、主イエスは故郷に帰り、安息日に会堂で力強く教えられました。その教えを聞いた故郷の人々は大変驚いたのです。その知恵はどこから来たのか。この人は、自分たちの知っている大工ではないか。彼の母親も知っている。彼の兄弟たちも、姉妹たちも、一緒に過ごしているではないかと思ったのです。故郷の人々は、自分たちの持っている、幼い時から知っているイエスに対する理解、同じ故郷で過ごして来た中で見て来た理解に基づいて、今のイエスの姿を見て、イエスの語る教えを聞いたので、正しく理解できないのです。イエスの真実を見る目が曇ってしまったのです。イエスが力強く語る姿に驚き、つまずいてしまったのです。それで、イエスを救い主と信じることができなくなったのです。

 

でも、イエスがこれほどまでに、生まれたときからずっと完全な人間の姿で生活なさったことは、神様の恵みであります。しかし、イエスが真の人間として歩まれたことは恵み深いことなのですが、故郷の人々には、正しい理解を妨げることになりました。このことは、神様の御業を見る時、それを信じつつ見るか、それとも自分の過去の理解にも基づいて見るかによって大きく違う結果となることを示しています。信じて見るようになりますように。