2021年1月24日 礼拝説教要旨

宣教の始まり

三好 晴夫 牧師

        マタイによる福音書 第4章12-17節         

      

主題聖句:そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。  

マタイによる福音書 第4章17節

 

主イエスは、ガリラヤのカファルナウムの町に住んで、その町を拠点にして宣教を始められました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というメッセージを宣べ伝えられたのです。

 

「天の国」は、福音書記者マタイの独特な表現です。マルコ福音書では、「神の国」と表現されています。同じ意味です。当時のユダヤ人が「神」という言い方を避けているところから、マタイも神という言い方を避けて「天の国」と言ったのです。「天の国」とは、一定の領域、場所と言うよりも、神が王として支配しているという、神の働きそのものに着目した言葉です。神の支配、神の統治と言う意味です。「天の国が近づいた」とは、神のご支配が神の御子イエスにおいて今や到来したということです。主イエスは、ご自分において神のご支配がここに到着したと語ったのです。

 

それゆえ、主イエスを通して現された神のご支配を認めて、神との正しい関係に入れと勧めるのです。悔い改めよ。方向転換して神に立ち返れと勧められるのです。

 

主イエスは、神の国について教え続け、神に立ち返るように語り続け、そうなるように十字架の道に進まれました。ですから神のご支配は主イエス・キリストにおいて私たちのすぐそばにあります。しかし、私たちはこの神を離れてしまい、神から背いて自分勝手な道に進みやすいものです。そんな私たちに主イエスは、なおも悔い改めを呼びかけておられます。

2021年1月17日(日) 礼拝説教要旨

主イエスに従う 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第4章18-25節    

      

主題聖句:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。        

マタイによる福音書 第4章19節

 

私たちの信仰はどのようにして始まるのでしょうか。その中心的な始まりについて確認したいと思います。使徒パウロはローマの信徒への手紙10章17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と語っています。すなわち、信仰は、主イエスが自分たちに呼びかけられるその言葉を聞くことによって始まるのだということです。私たちが聖書を読んだり、説教を聞いたりすることを通して、主イエスが語られる言葉を聞きます。そして、その中に込められた主イエスのお心や思いを知るのです。そうしてこのお方がこの私にとってどんなお方かを知って信頼するように導かれます。そしてますますこのお方を救い主と信じ、これからも信じ続けるようにと導かれていくのです。

 

その意味で、主イエスの最初の弟子たちが、どのようにして弟子となったのかそのいきさつを知って、私たちが弟子として召されるその道筋を見たいのです。

 

主イエスがガリラヤ湖で漁をしていた漁師にかけられた言葉が、「わたしについてきなさい」でした。主イエスの方から、わたしを指導者として、わたしを深く関わって、わたしに従うようにとの大胆な招きです。主イエスは今も私たちをも招いておられます。主イエスを信頼し、神のための働きを一緒にしよう、そのように導くとの約束をもって招いておられます。

 

2021年1月10日 礼拝説教要旨

主イエスの洗礼

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第3章13-17節

           

主題聖句:しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」  

      マタイによる福音書 第3章15節

 

主イエスは洗礼を受けられたことによって、神の御子としての姿を公に表わされました。その栄光はどんな輝きであったのでしょうか。

 

それまでガリラヤに住んでおられた主イエスが30歳になられたとき、洗礼者ヨハネの働きを耳にしました。ヨハネは、ユダヤの荒野で、悔い改めよ、天の国は近づいたと語り、人々に悔い改めを迫ったのです。そのうわさが全イスラエルに拡がり、多くの人々がヨハネのもとに来て、自分の罪を告白し、洗礼を受けたのです。

 

その洗礼の列の中にイエスも加わり、自分に洗礼を授けてほしいとヨハネに願ったのです。しかし、ヨハネはイエスが罪のない方であり、メシアであると分かりその申し出を思いとどまらせようとしました。ところが、イエスはヨハネの躊躇を跳ね返し強く洗礼を求められました。その理由として「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」ということでした。「正しいこと」とは「義」と訳される言葉です。聖書では義とは神の契約に忠実であるということです。神は私たち人間を愛し救おうとされる救いの契約に従って人間を救う御業を進めてくださるお方です。その救いの契約に忠実に従おうとして主イエスは洗礼を受けると言われるのです。つまり、イエス自身、罪人の立場に自分の身を置き、人間の罪を自分の罪として負って告白されたのです。罪人の友として歩み出された。

2021年1月3日 礼拝説教要旨

主に守られて

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第2章13-23節

 

主題聖句: 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」    マタイによる福音書 第2章13節

 

 

クリスマスの恵みの中で、新しい年の最初の礼拝を持っています。

 

最初のクリスマスの出来事を見ますと、救い主の誕生を喜び祝う明るい面ばかりではなく、今日の箇所のようなエジプトへの避難など大変困難や危険が、その誕生の時からあったことを知らされます。どうしてこんな苦難が誕生の時からあったのでしょうか。それは、主イエスが誕生の時から人々に歓迎されなかったというのが、人間の現実の姿であったからです。ヘロデ王が、占星術の学者からユダヤ人の王が誕生したことを聞いたとき、ヘロデ王は自分以外に王が生れることは困ると思い、その子を殺そうとしたのです。私たちも、イエスを歓迎したくない思いがあることを知らなければなりません。でも、その中に神は御子を生れさせられたのです。罪人である私たちを救おうとされた神の御計画があったからです。

 

学者たちが帰った後、主の天使が夢でヨセフに現れて、急いで子と母親を連れてエジプトに逃げよ、ヘロデがこの子を探して殺そうとしていると具体的な指示をしました。ヨセフはその指示を神のご命令と受け留め、すぐに行動しました。こうして彼らは助かりました。神は彼らを守られたように、私たちとも共におられて、私たちを守り、導いてくださいます。