2017年8月6日 礼拝説教要旨

主において同じ思いを抱け

三好 晴夫 牧師

フィリピの信徒への手紙 第4章2節-9節

主題聖句:わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。      

フィリピの信徒への手紙第42

 

  8月、平和を覚えて共に祈りたい。72年前(1945年)8月に第二次世界大戦が終わった。日本は無謀にも、中国やアメリカなど大国と戦い、戦闘員も一般市民も巻き込んで甚大な犠牲をもたらした。どんな理由があったとしても戦争を繰り返してはいけないと戦争体験者は語っている。でも、今も世界中のどこかで紛争や武力衝突が起こっている。

 

どうして戦争が起こるのか。その原因は、私たち人間の中にある、自分を正しいとし、相手と戦おうとする欲望である。そのような火種はいたるところにある。私たち一人一人の心の中にも潜んでいる。

 

私たちは自己主張し、何かの拍子に爆発して相手を攻撃してしまうことがある。それぞれの弱さゆえに、間違った判断で行動してしまうことがある。そのような欠け多き私たちの中で生まれる対立や衝突に対してどうしたらよいのか。

 

今日の箇所において、使徒パウロは、教会の中に起こる問題をしっかりと認めること、それにおける自分の意見や考えを主張し合って正しいかを決めるのではない。「主において同じ思いを抱く」のです。主がイエス・キリストにおいて成し遂げてくださった和解の出来事にお互いが思いを向けていくことである。このキリストの御業によって私も相手も救い出されたお互いだからだ。そこに一つとなる道を見い出すことができる。

 

2017年7月30日 礼拝説教要旨

イエスの御名を信じる

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第3章11-16節

主題聖句:あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

                 使徒言行録第316

 

 エルサレム神殿の「美しい門」のそばで、生まれながらに足の不自由な男が物ごいをしていました。その彼に向かって、使徒ペトロとヨハネは「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語り、彼の手を取って立ち上がらせたところ、彼は躍り上がって立ち、歩き出すという奇跡が起こりました。これを見聞きした人々が非常に驚き、ペトロたちのところに集まって来ました。そこで、その民衆に向かってペトロが、今行われた奇跡について説明を始めたのです。

 

人々は驚いていました。この二人が奇跡を行う特別な能力を持っていてその力によってこの男を歩かせたのだと思い込んでいたのです。しかしそうではないのです。ペトロは「自分の力や信心によって、この人を歩かせた」のではない、「この人を、イエスの名が強くした」のだとはっきりと語りました。イエスの名とは、イスラエルの神の僕であるイエスの名です。

 

このお方の御力がこの人を強くし、歩かせたのです。イエスの名をこの人が素直に信じて、自分をペトロの手に委ねて立ち上がったとき、イエスの御力が現わされたのです。私たちもイエスの名を信じて歩みましょう。

2017年7月23日 礼拝説教要旨

キリストの名によって歩け

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第3章1-10節

主題聖句:「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

                  使徒言行録第36

 

 主イエス・キリストの御名の力を覚えましょう。聖霊の降臨によって、主イエスがなさった不思議な御業が、使徒たちによっても行われたのです。その不思議な御業はどのようなものだったのでしょう。

 

使徒ぺトロとヨハネが、午後3時の祈りの時にエルサレム神殿に上った時に起こりました。彼ら二人が「美しい門」という神殿の門を通りかかったとき、そこに生まれながらに足の不自由な男が置かされていたのでした。その男が二人に施しを求めたとき、彼らは彼をじっと見つめ「わたしたちを見なさい」と言いました。その男は何かもらえると思って彼らをじっと見ました。その時です。ペトロは言いました。「わたしには金銀はない」。しかし「わたしの持っているものをあげます」。それは、私の大切な宝であるナザレ人イエス・キリストの名です。その名によって立ち上がり、歩きなさいとペトロは語って、彼を立ち上がらせたのです。彼はペトロの手助けで立ち上がって、神を賛美しながら神殿に入って行きました。

 

ペトロはどうしてそんなことを言ったのでしょうか。ペトロはイエスが真のキリスト救い主であると確信していたからです。このお方が、十字架の死の後、神によって復活し、神の右に座し、聖霊の姿でここにおられると信じていたからです。大切な宝であるキリストを信じていたからです。