投稿者: matsuyama-alliance
2019年12月8日 礼拝説教要旨
主の道をまっすぐにせよ
三好 晴夫 牧師
ヨハネによる福音書 第1章19-28節
主題聖句: ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
ヨハネによる福音書 第1章23節
今日待降節第二主日の主題は、洗礼者ヨハネの証言を聞くことです。
洗礼者ヨハネが現れたのは、主イエスが公に救い主としての働きをする少し前でした。マルコ福音書1章によると、ヨハネが荒野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたところ、そのメッセージを聞いた人々は、次々と自らの罪を告白し、ヨルダン川で彼から悔い改めの洗礼を受けて行ったのです。そのことにただならぬ不穏な状態を感じた、エルサレムのユダヤ人指導者たちは、祭祀やレビ人を送ってヨハネに問いただしたのです。「あなたはどなたですか」と。
ヨハネは公言して隠さず「わたしはメシアではない」と言い表したのです。絶対にそういう者ではないと打ち消したのです。それでは「何ですか、あなたはエリヤですか。あなたはあの預言者ですか」と尋ねてきたのですが、ヨハネは「違う」と否認しました。それで、彼らは少し安心したようですが、「それではいったい、だれなのです。あなたは自分を何だと言うのですか」と聞いてきました。それでヨハネがした答えが、上記のみ言葉でした。「わたしは、荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 王が地方に出かける時、先駆けが前もって出かけて行って王を迎える備えを指示するように、ヨハネは救い主が来られるにあたり、人々に救い主を迎える備えを呼びかけるのだと言う。
2019年12月1日 礼拝説教要旨
神は王となられる
三好 晴夫 牧師
イザヤ書 第52章1-10節
主題聖句:歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
イザヤ書 第52章9節
2千年前、ユダヤのベツレヘムでお生れになられた救い主の誕生は、何の前触れもなく、突然に起こったのではありませんでした。旧約の昔の時代から預言者たちによって救い主の到来は預言されていたのでした。その預言の実現を待ち望んでいた人々のもとに救い主がお生れになったのです。彼らの待ち望む姿に見倣って、私たちも救い主の御降誕を心新たに喜び迎えたいのです。
今日は、待降節第一主日として、イザヤ書52章を読みます。その時代のイスラエルの民は、自国をバビロン帝国によって滅ぼされ、バビロンの地で捕囚の民として、絶望と苦難の中にありました。その彼らに、大いなる希望が預言されたのです。自国が滅ぼされていたイスラエルの民に、再び故国に帰ることができるようになると預言されたのです。
それだけでなく、神が彼らに大いなる御業をなさることが告げられたのです。彼らが救われるというのです。「主がシオンに帰られる」。彼らの犯した罪のゆえに裁かれ、神からも見捨てられていたが、彼らのところに神が帰って来てくださるのです。「主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。主が、その憐れみによって神が代価を払って罪から彼らを救い出してくださるのです。そのために苦難のしもべが現れ、そのしもべが犠牲となって多くの人々を救われるのです。何と驚くべき救いの預言でしょうか。この預言がキリストにおいて実現したのです。
2019年11月24日 礼拝説教要旨
まことの神を知る
三好 晴夫 牧師
使徒言行録 第17章16-34節
主題聖句:これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。
使徒言行録 第17章27節
日本は四季折々に自然が美しく、住みやすい国と言われます。津々浦々に神社もお寺も多くある、信仰心のあついお国柄です。しかし、その日本人の多くは、キリスト教の神、聖書の示す神について、あまりよく知らないのではないでしょうか。そういうキリスト教とは縁遠い人々に、まことの神をお知らせするにはどうしたらよいのでしょうか。
その意味で参考になるのが、同じように聖書の神を全く知らないギリシアのアテネの人々に、パウロがどのように伝えたかということです。それが今日の聖書箇所です。
パウロは、アテネの町に建てられていた「知られざる神に」という祭壇を見付け、知らないゆえにその神を粗末にしているかもしれないと恐れて、そういう祭壇を建てるほどに、アテネの人は信仰の熱心な人たちとに認めて、その上で、知らないで拝んでいる神を知らせましょうということから、パウロは、その神を、聖書の示す神を紹介したのです。
その神は、世界とその中の万物を造られた神であり、天地の主です。すべての人に命と息とその他すべてのものを与えられる方です。神は一人の人からすべての民族を造りだして地上に住まわせて支えておられます。そのような秩序があるのは、背後に創造主なる神がおられ、配慮しておられるからです。謙虚に目を向けると神の存在を感じるはずです。